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伝統の激戦は真剣勝負、金本阪神の行方は?

2017.04.23(18:25)

>●巨人1―2阪神(23日・東京ドーム) 巨人は阪神投手陣に13三振を喫し接戦を落とした。先発の内海は6回2失点と粘ったが、序盤での失点が響き2敗目(1勝)を喫した。打線は阪神を上回る2ケタ10安打を放つも、3回、村田の適時打での1点のみ。好機にあと1本が出なかった。巨人・内海は6回を投げ2失点。初回の阪神4番・福留に右前適時打。3回も1死満塁から福留のセンター犠牲フライといずれも4番の一振りで失点した。伝統の一戦は、阪神が2勝1敗と勝ち越し、先発の横山は、今季初先発で初勝利を挙げた。(スポーツ報知、4月23日)

  いま東京ドームのデーゲームから帰宅しましたw 試合前トラッキーとジャビットのダンスと抱擁熱愛に大笑いするも試合が始まるとそんな親和ムードはどこへやら、最初から最後まで息も吐かせぬガチンコの接戦勝負となりました。わが阪神の先発中継ぎは横山・桑原で不案内な私は「大丈夫?」と思いましたがそんな杞憂も何のその、球威で押すカウントの早い攻めのピッチング、首位を狙う巨人打線を相手に3ボールも辞さず結局三振という場面も多々ありました…ほえ~っと感嘆した嬉しい誤算ですね。

  打線は休養高山に代わり左翼中谷が堂々の代役を果たし仕業師・福留の技ありで貴重な2点を加え、巨人が10安打、阪神が5安打にも関らず阪神の逃げ切り勝ちとなりましたがこれは金本監督が選手に対して必死の形相で池口パワーを送っていたのか、矢野が白装束姿でベンチ奥で悲愴に水垢離を取っていたか、そのどちらかだと思いますw 心配なのは鳥谷でまだ本調子ではないですね、完全にぎくしゃくしています。でもこのように実績充分なベテランが出口の見えない不調に悩むというのは巨人打線全体に感じたことでした。

  私は今日3塁席でしたが巨人ファンも3塁側に多く、右手と前方が巨人ファン、左手と後方が阪神ファンという場所でしたが、目の前の巨人ファンの人たちが村田・長野をボロクソでw阪神ファンに劣らぬ自虐応援をかましていました…ボールの多かった内海に代わり篠原w9回は亀井で個人的に大笑いしてしまいましたw 7回を挟み高山・慎之助が登場しますが不発、9回に良太登場時には「兄ちゃんに負けるな~」物凄い大歓声です。私はスーパードライのお姉さんからビールを2杯買うと2点入ったので8回に3杯目を無理飲みしました…彼女が勝利の女神かも?w

  最後はマテオ・ドリスの方程式と大和の守備できっちりと締めましたが、う~ん三塁にキャンベルか新戦力か…一塁中谷・捕手原口はどうなのか…6~9番がこんな淡泊ではなかった筈です。糸井が不発でこの勝利ですがやはりロード以降の競り合いに勝つということで10勝投手と守備巧者の内野手を新たに採るべきなのかな…金本監督は長期政権だと思ってはいますがそれに甘んずることなく、二工夫、三工夫を重ね、改革をきっちり積み上げていってほしいと思います。神宮もいいですがやっぱりドームも盛り上がりますね~ 最後に一言、いや~阪神タイガースって本当にいいチームですね、とりあえず本日の激戦を制し巨人に勝ち越しました、本当にオメデトウゴザイマース!!!
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法印を解説してみるw

2017.04.23(10:14)

  さて、久しぶりのなんちゃってサトリ解説ですが、クリシュナムルティやニーチェを参考にします。とにかく、我々は生きる上で様々な前提・制約・条件を受けざるを得ないのであり、その内容は潜在意識下で千差万別・百人百様・百花繚乱状態です。ですからこのようなトピックが出されても、無神論者からいきなり「宗教とはこれこれこうあるべきだ!」とか演説されてしまうのですが、それは絶対条件ではなく、この人個人の考えなのは言うまでもなく、勿論この文章も私の個人的な卑見にすぎません。

  般若心経の三法印、四法印と呼ばれる四文字熟語があるそうですね、今回はこれを使いましょう。まず①「諸行無常」ですが、これは私「人生に決定的瞬間ということはない」と解釈します。誕生、節目、事件、大病、劇的、記念、死亡、充実、低迷…挙句は死後の世界で閻魔大王に判決を受け、極楽へ天使姿wで急上昇、またはグレート義太夫からバッテンが出て血の池で獄卒鬼たちから凄惨なリンチを受ける…人生にはいろんな時期がありますが、これらはその時々という意味において皆一律に平等でありw記念写真に収まった日も何もなかった無為の日も一様にその時期が人生全体をその方向に色付ける「決定的瞬間」にはなり得ない、勿論大事故または急病でその後ずっと寝たきりになってしまうケースも含めて、そういう風に私は解釈しています。

  次に②「諸法無我」という言葉の意味を考えてみます。プラトンのイデア論というのがありますね。この世はどこまでも不完全だけれども、その奥には完成された理念の世界というものが存在する。この不完全な現実に対する完成形の理念、これがイデアだと思いますが、釈迦の哲理はこうした「完成形の理念というものは存在しない」不完全な現実のみが存在するだけである、こう解釈しますね。これはクリシュナムルティが説く如く、我々人間のエゴ=自我=俯瞰者というものは対象に向ってすぐに「何糞~こん畜生!」と脊髄反射する傾向があるんですねw(私だけですか?)その結果、お腹が減ると反対の「満腹・満腹!」を徒に求め食べ過ぎてしまったり、ちょっとした欠損にも過剰に供給しがちなんです。同様に流動的な現実を見るとだんだん不安が募り、何か静止した、決定された、止揚された、ぴたっと決まったものを内面に拵えてしまうのです。不完全なものを見ても「ダメだなぁ~、全然なってない…いいか、完成されたものというのはだな…」と口上演説が始まります。そして、意地悪で穿った見方かもしれませんが、彼らが示した止揚された状態も理念の完成形も、どこか流動的で不完全なのです。またそこで「何糞・こん畜生~!」これが延々と続くわけですね。

  ③の「一切皆苦・涅槃寂静」ですが、これは上記の①②を踏まえ、どこまでも流動的・不完全な人生において止揚や完全を求めれば苦悩が訪れ、反対に人生はどこまでも流動的かつ不完全であると割り切れば永劫回帰でどこまでも生きていける、どんな平平凡凡でつまらない人生でもどこまでも続いていくと見出すことができる、こう思うのです。私が仏教信者ながらどこまでもアンチ法華なのは、「法華」とはこの「止揚・完成のシンボル」のように思えるから、なのです。釈迦の内面や人生に止揚も完成もない…それを示すのが大日如来ではないでしょうか?

  補足すると潜在意識の願望実現、思考は現実化する、これは潜在意識の内部要素の調整に成功すれば本当に何でもよく叶うと思います。ただ無限の可能性の中で少し、タブーというか目標・目的にしてはいけない項目があるんですね。それは(1)自他の人生にレッテルを貼れるようその内容を特定の傾向に色付けすること(2)理念の完成形と自己の同一、少なくともこの2つは目的にしてはいけない、こういうことも言えると思います。私自身は意義ある人生、無意味な人生、平等だという考えですね。

  ただそのような中において、自分が本当は心の奥でどう感じているのか、また何故自分はその点にこだわっているのか、それを内心で理解することが必要だと思います。そして自分はどのような感情を抱いた時に好意や幸福感を感ずるのか、どういう感情が嫌いで不幸に感ずるのかこれは各自でよく探し求め踏まえなければなりません。その上でその感情を獲得するためには自分は何をしたらよいのかを考える。どんな状況でも自分を大事に・大切にする、そのための感情を探し、そして行動するこういうことがポイントなのではないかと最近思いました。少しでもヒントや参考になれば幸いです。


2017年04月

  1. 伝統の激戦は真剣勝負、金本阪神の行方は?(04/23)
  2. 法印を解説してみるw(04/23)
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