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アンゴルモアの大王と中露

2013.12.14(11:18)

  五島勉さんのH.G.ウェルズのSF作品内に込められた予言の解読書とその前に出た飛鳥昭雄氏との対談録を読んだので、ちょっとノストラダムスの大予言の四行詩について卑見なりに解説してみたいと思います。

    ・・・1999年7の月
     空から恐怖の大王が降ってくるだろう
     アンゴルモアの大王を甦らせるために
     その前後マルスは幸福の名の下に支配する」(諸世紀第10巻72)

  謎の多い詩だが、最大の問題は何故これが人類滅亡を謳った詩なのか?ということだ。滅亡なんてどこにも書いていないじゃないかという人もいる。たしかに「恐怖の大王」という表現はあるものの、それで人類が滅びるとはこの詩には一言も書かれていない。しかしはっきりとそうは書かれていないが、代わりに「アンゴルモアの大王」の句がある、これがキーになる。これは本文でも繰り返し述べたように、1999年間近になって起こる、中国軍またはアジア軍の全面攻撃を指していると思われる。アンゴルモアの大王→モンゴルの大王→ジンギスカンの世界征服→それが甦ったようにアジアの大軍が再び中近東やヨーロッパを襲う。
(五島勉著「ノストラダムスの大予言Ⅱ」1979年祥伝社刊より抜粋、改変あり)

  まず冒頭の1999年、これが2年のずれでニューヨークにおける2001年9.11の同時多発テロとして的中した、とこれは五島さんもそう考えているわけです。私が戦慄したのは「7の月」セプテンバーとズバリ言い当てている点ですね。恐怖の大王すなわち「テロの大王」によるハイジャック旅客機が貿易センターツインタワーに激突し、ビルが崩落した・・・2行目はこの情景でいいでしょう。飛ばして4行目のマルスをアメリカ合衆国の覇権主義と解釈しましょう。そして現在の米中2強時代から3行目のアンゴルモアの大王を中華帝国、または共産主義の象徴と解釈してみましょう。ただ実行犯はイスラム過激派のタリバンですよね。彼らが中国や共産主義を台頭させるためにテロを起こしたというのは不勉強な私には少々飛躍があるような感じが否めません。9.11にはそのような隠れた意図があったのでしょうか。

  ・・・まず最初に、蒙古帝国時代の欧州人の価値観について簡単に触れてみたいと思います。当時の欧州人の蒙古帝国に対する第一の印象は「畏怖すべき存在」でした。遙か東の彼方から破竹の勢いで進撃し、向かう所敵なし、連戦連勝の精強な軍隊を擁する異教徒。彼ら欧州人達には、かつて(西)ローマ帝国を滅亡の縁へと追いやったフン族の再来に映ったのです。現に時の大ハーン(大汗=皇帝)・グユックがローマ教皇インノケンティウス4世へ宛てた返書には、教皇の事を「汝」と書き、「日の昇る処より、日の沈む処まで、我が支配すべき土地なり」「敵対すれば、必ずや滅ぼさん」と世界征服を宣言しています。

  当時の欧州人にとって教皇とは国王を超越した存在、日本で言えば、将軍や諸侯に対する天皇と同じだった訳で、この教皇を「汝」と呼び捨てにした事一つとっても、彼ら欧州人達の蒙古に対する驚愕と畏怖の念が汲み取れます。しかし、一方で彼ら(欧州人や支配下に組み入れられた諸民族)は畏怖の念と同時に、蒙古に対して強い憧れも抱いたのです。支配者への強い憧れ、これは古今東西を問わず被支配者が支配者に対して、多かれ少なかれ抱く感情です。現に現代日本がそうです。戦勝国アメリカは「憎き敵・鬼畜米英」だった筈です。しかし終戦と共に価値観がガラリと変わり、文化や生活習慣のあちらこちらにかつての敵だったアメリカが顔を覗かせています。当時も同様に「畏怖すべき存在」であるにも関わらずそれと同時に蒙古への強い憧れがあったのです。例えばファッション。上流階級等はこぞって蒙古風の服装を好みました。つまり、時代の最先端・最新モードは「蒙古」だった訳です。更に、諸侯の中には蒙古語で「王」を表す「ハーン」(汗)の称号を名乗る者まで現れました。そして、その最たるものがルーシと呼ばれた当時のロシアだったのです。

  イヴァン3世成吉思汗の長子・ジョチとその子バトゥによって、ロシアに築かれたキプチャク・ハン国(以下、「欽察汗国」と略)。この欽察汗国によってロシアが支配された時代を一般に「韃靼の軛」(タタールのくびき)と呼ぶのですが、この時代にロシアは「蒙古化」され(欧州文化と蒙古文化の融合)、西欧とは異なる独特な「ロシア文化」を醸成していったのです。そのロシアにあって中心的な役割を演じたモスクワ大公・イヴァン3世が父祖の遺志であったロシア統一を成し遂げ、1480年蒙古から遂に独立を果たします。その彼(イヴァン3世)が称した称号は「ツァガン・ハーン」(白い皇帝)だったのです。これは当時、弱体と混乱の内にあった欽察汗国(群雄が割拠し、もはや統一国家とは呼べない状況にあった)、つまりは蒙古の帝位を継承する意志表明だったのではないでしょうか?

  だからこそロシア人にも関わらず、敢えて蒙古語である「ハーン」を称したのです。その後、イヴァン3世はオスマン・トルコ帝国によって滅ぼされたビザンチン帝国(東ローマ帝国)の皇女ゾーヤ・パレオローグと結婚し、ビザンチンの帝位をも継承。1917年のロシア革命によってニコライ2世が退位する迄続く「ツァーリ」(皇帝)の称号を初めて称し、ロシア帝国の礎を築いたのです。その後、ロシアは旧・欽察汗国領に分立した蒙古系諸国を次々と併合し、東へ東へと領土を拡張していった事は周知の通りです。そして、この領土拡張政策は、ロシア帝国が革命により崩壊しソヴィエト連邦が成立した後も踏襲されました。しかし、この蒙古帝国を「継承」した国家はロシア(及びその後継であるソ連)だけでは無かったのです。

  蒙古帝国を継承したもう一つの国家、それは支那でした。フビライ(以下、「忽必烈」と略)が大汗となり、支那を征服、国号を「大元」と定めた時、蒙古帝国の中心は北方の故郷・蒙古平原から支那本土へと遷ったのです。忽必烈の建てた元王朝は1368年、新たに成立した明王朝によって、支那本土を逐われ、再び北方の故郷・蒙古平原へと還っていきました。しかし蒙古帝国は決して滅んだ訳では無かったのです。故郷へと還っていった元王朝は北元と呼ばれ、明代(明王朝の時代)を通じて常に北方に存在しました。つまり、明代とは南の明王朝と北の北元とが並立する時代、言い換えれば「南北朝時代」だったのです。この様に蒙古帝国は支那本土の領土を失った後も故郷の地に北元として存続しました。この北元時代、彼ら蒙古人の中には満州人と混血する者も現れました。そして、それは王族でも変わりありませんでした。そんな中、明王朝に反旗を翻した一人の満州人が現れました。彼の名はアイシンギョロ・ヌルハチ(愛新覚羅-弩爾哈斉)。後に清の太祖と呼ばれる事となる清王朝の創始者ですが、彼も又、蒙古人の血を引く満州人だったのです。

  1635年、清朝第2代大汗・太宗ホンタイジ(皇太極)は、遂に一つの貴重な宝を掌中にします。それは代々の蒙古皇帝に継承されてきた蒙古皇帝である証「元朝伝国璽」(げんちょうでんこくのじ)でした。そして、この「元朝伝国璽」を根拠に、彼(皇太極)は満州人・蒙古人・漢人の3民族に君臨する「皇帝」に即位し、国号をそれ迄の後金(満州)から大清に変えました。この瞬間、蒙古帝国は満州人によって継承され、清朝が成立したのです。1912年清朝は辛亥革命によって崩壊。支那(漢人)は満州人(と準支配階級である蒙古人)の支配から独立しました。この時、支那には統一国家の体をなしていない中華民国が成立したのですが、彼ら漢人達は蒙古人(元朝)と満州人(清朝)による支配の中で、とんでもない妄想(というよりも勘違いと言った方が正しい?)を抱いてしまったのです。その妄想とは何と「支那はモンゴル帝国の正統な継承者」というものです。

  これがどの様な事かと言うと、支那は蒙古人(元朝)に支配された→支那は蒙古人の支配から独立した→蒙古皇帝の証「元朝伝国璽」を清の太宗が入手(清朝が蒙古帝国を相続)→支那は満州人(清朝)に支配された→支那は満州人の支配から独立した→独立した支那は清朝の正統な後継者である(勝手な思い込み)→故に支那は清朝の領土も継承した(もの凄い思い込み)→つまり満州も蒙古もチベットもウイグルも、全て支那の領土である!(とんでもない思い込み)・・・というもので、怖しい事にこの妄想は現在も常識として支那支配層の政治思想を支配しているのです。成吉思汗が没して約800年。一説に奥州平泉は衣川に自刃したとされる源義経が北海道・樺太・満州を経て蒙古に入り、成吉思汗になった共言われていますが・・・もしもこれが事実だとすれば、現在に至る迄ロシアそして支那の思想を支配する蒙古帝国の幻影は、日本人が種を蒔いた事になるのです。それにしても、没後800年を経て今尚影響を及ぼす成吉思汗。正におそるべしの一言です。

  現在は自由主義を取り入れてはいますが、いまなお米国に対峙する中露がジンギスカンから始まるモンゴル帝国の継承者を自認しているという見方もあるのです。

  まず、東アジアにおいて地域統合の機運が高まっている背景について考えてみたい。最大の要因は中国の台頭である。中国経済と他のアジア諸国経済との事実上の統合は、中国経済の発展とともに急速に進展した。中国の隣国は、一方で産業の空洞化を懸念し、他方で成長を続ける中国経済に参画し受益することを切望している。これらの懸念と関心は、世界景気後退によって域外への輸出が急減する中で、さらに高まっている。中国の軍事力増強に対する懸念も、一国の繁栄が他国の利益であるような安定的な相互依存関係の中に中国を迎え入れる必要性を高めている。中国は隣国が中国について経済面、軍事面ともに脅威感を抱いていることを認識し、地域の政治・経済の枠組みを支援することによって、中国の戦略的意図に対する隣国の不安を和らげようとしている。

  そして一見無関係のように見える同時多発テロもまた、東アジアの経済統合に影響を与えている。それは一方で世界経済の停滞を一層深刻化させ、米国市場への依存度の高い東アジア諸国の目を域内市場に向けさせたと同時に、政治的にも米国のアジア政策および日中関係に変化の契機をもたらしている。米国は対テロ包囲網構築のため、ブッシュ政権発足以来強まっていた一方的な対外政策アプローチを修正し、国際協調を図っている。もちろんこの政策変化はテロ対策に直接関わらない部分に及んでいるわけではないし、テロ対策においても米国は自国の主導権を重視し続けている。にもかかわらず、テロ対策を契機として米国と主要国間の関係は大きく変化している。東アジアにおいて顕著なのは、米中日の3国間関係の「同時」改善である。特に中国の政策は、米ロ接近の大きな影響を受けている。中国はテロ勃発後迅速に、留保付きながらも米国に対する支持を表明した。日本は自衛隊の派遣を含む後方支援策を発表し、米国政府はこれを歓迎している。小泉首相は北京を訪問して謝罪を表明し、教科書問題に加え靖国参拝で悪化した中国の対日感情を緩和した。

  3国間の関係改善が定着するかどうかは見極めが必要であるし、テロ対策によって米中の根本的な価値観の相違がなくなるわけではないが、少なくとも現在の穏やかな3国関係は東アジアの統合推進にとって好条件である。日中関係の緊張は、両国を含む枠組みの進展を妨げるとともに、一方の地域統合への取り組みに対し他方が不信感を抱くことにより、各々の取り組みが将来の大きな地域統合の礎となることを妨げるであろう。また、米国と日中両国との関係が緊張していれば、米国がメンバーであろうとなかろうと、統合されより成熟したアジアは、分断され不安定なアジアよりも米国の利益になることについて、米国内で広汎な理解と支持を得ることは困難になるであろう。さて日本はこの状況をいかに自らの国益のために活かすことができるであろうか。

  日本の緊急課題は経済活力の回復である。処方箋は既に論じ尽くされているが、財政支出による一時的刺激ではない。経済全体が右肩あがりにならない時代に成長するためには、経済・社会の仕組みを新しいビジネス・市場・雇用が生み出される柔軟なものに組替えなければならない。それは国内だけで実現されるのではない。一体化する世界経済の中で日本の事業環境とそこで活動する企業が競争力を持つためには、国内に効率的で柔軟な市場が存在するとともに、国境を超える事業活動にとってのさまざまな障害が取り除かれなければならない。交渉開始が合意された世界貿易機関(WTO)における新たな貿易交渉を通じた貿易障壁の削減に加え、取引の密接な近隣諸国との往来を円滑にするための補完的なルール作りが急がれる。さらに、人口が高齢化する我が国が自らの活力を維持するためには、高い潜在力を持つアジア諸国との経済統合を深め、その活力を取り入れることが有益である。

  同時に近隣諸国に比較優位のある産業分野の市場を開放し、アジア地域の自立的・安定的な発展を促すことが開かれた国益であろう。アジア経済が安定的に成長するためには、対外依存度を下げ域内需要を成長の牽引力とすることが避けられないし、そのことは世界経済全体の安定にとっても重要である。このためには国境を越えた経営資源の移動の障壁となるものをできるだけ取り除いて域内市場を統合し、域内需要向けの事業活動の収益性を高めることが欠かせない。さらに日本の安全はアジア地域の繁栄と安定に依存している。冷戦構造の下で長い間地域としての一体感のなかったアジアは、企業活動を通じて事実上の経済統合を進めている。この緊密な相互依存関係という経済実態を、域内各国間の安定的な関係を実現するための枠組み作りに活かそうという機運のあるとき、日本がそこから取り残されることは避けたい。
(宗像直子、経済産業研究所2001年より抜粋)

  前半の2行で2001年同時多発テロを予言し、後半2行で米中2強の新たなる冷戦?を暗示しているのかも知れません。でもボンクラの私にはテロから中露への展開に飛躍の感を禁じ得ません。しかし因果関係は不明ですが、時系列的に見ればGSのジム・オニール氏がBRICsを指摘したのが2001年11月なんです。9月に起こる大規模テロの前後、米国による美名の下の覇権主義(湾岸戦争?)が続くが、その後昔日の残虐非道かつ広大な蒙古帝国(中露?)が経済的・軍事的に再び世界の檜舞台に台頭してくる、ということでしょうか。近年のオリンピックも北京やソチでありますね。70年代当時、史実や国際情勢に予言の根拠を求める五島さんにとってこれはかなり難解な部類の詩であったに違いありません。でもノストラダムスには時系列順の展開が視えていたようでそこがコワイですねw 現在焦点のTPPがこの枠組みにどう絡み、何よりも日本にとって凶と出るか吉と出るか、慎重に見極めなくてはなりません。ノストラダムスは「日の国はメルキュールによってエクリプスを隠す 第2の空にしか置かれない」と予言しているのですが・・・ 
  
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とある真如苑体験談

2013.12.02(20:41)

   ・・・ところが私は「得度受戒式」の前日、「肉?を食べてしまった」かも知れませんでした。羽田空港から伊丹空港まで飛行機に乗り、伊丹から高槻までバスをチャーターしてもらいました。夜、高槻のホテルに泊まりました。付近のコンビニで「おにぎり」を2つ買いました。1つ目は『梅干し』でしたが、2つ目は、『山菜おこわ』だったか『昆布』だったか『ワカメ』だったか『高菜』だったかよく憶えていません。最初の「梅干し」はクリアしましたが、2つ目のは何と「肉」が入ってしまったのです。この場合「関東系」のコンビニでは肉が入らないのに、「関西系」では肉入りなのです。私は即座に吐き出しました。

  「得度受戒式」の当日、チャーター・バスで「悠音精舎」に向かいました。事務局員は式の直前、「受戒される前に、精進潔斎ができていない方は正直に申し出ていただき、式には出ないで下さい」と忠告しました。私は「高槻は交通が遠いのだ。何しろ肉は食べなかったのだから」と、後ろめたかったにもかかわらず、結局「得度」を受戒してしまいました。式の「前半」は難なく過ごし、「後半」はクライマックスです。「表苑主」と「裏苑主」が出席しました。私は期待に胸を膨らませていました。しかし、残念ながら私は「裏苑主」から戒を授かってしまったのです。

  志づ子「ミノタウロスさんね」
  私「はいっ!」
  志づ子「おめでとうございます」

  私はしっかりと「証」を受け取りましたが、最近流行の「桜塚やっくん」じゃないけど、果して「がっかりだよ!!」と思ったのです。でも私はその後、悩み苦しみました。帰京してから、経親と「総本部事務局」に「ひょっとしたら肉が入っていて、すでに飲み込んでしまったのかもしれません」と「上求菩提」したのです。事務局員によると、☓鳥☓子が立会いの下、「もし肉を食べてしまい、いんちきで『得度』してしまったとなると許されるものではない。しかしあなたが真に懺悔をしたというなら致し方ない。」と「お許しを頂いた」のでした。

  得度を受戒した年(平成6年か7年)の12月、私は総本部で「真澄寺奥の院」ご安置の「大日大聖不動明王さま」を拝観しました。私は「『大日大聖不動明王さま』は2度とお目にかかれない。この『おん目』で焼きつけておきたい」と覚悟しました。そして、奥の院の「お不動さま」の所へ近づいていきました。私はまさに期待に胸を膨らませていたのです。ところがところが、安置されているのは、何とも「情けない風体」だったのです。正面からではなく斜めから見ていたので、「お顔」がまるで“林家木久蔵師匠”でした。

  「何という“お姿”だろう。俺、木久蔵師匠は好きでも嫌いでもないけど、『祈りの対象』としては好きじゃないや!!!」またまた「やっくん」じゃないけど、「がっかりだよ!!」と感じてしまいました。でも、「あっ、しまった! これでは申し訳ない!! 」と即座に「反省思惟」しました。「お不動さま」を蔑ろにしてしまったのは、入信当時、信じることが出来なかった自分が「真如苑」を蔑ろにしていたことの「後遺症」だったのだろうと思って、「3つの歩み」に「精進」したのでした。当時の家庭集会では、「『大日大聖不動明王さま』を拝観させていただき、『感動』しました!!!」と叫びましたが、心にもないことを言ってしまったものです。

  ・・・「歓喜」を相承してから10年経ちましたが、脱苑した今となっては「噴飯」の極みです。得度受戒の「証」は、私が脳梗塞を発病した後に廃棄しました。私のような脱苑信者が「得度受戒式」などの裏情報を暴露したら、狂信教徒は「闡提だ!み仏に対する明らかな破戒行為だ!!」などと叫ぶでしょう。何しろ私は、「反苑の会」において、「得度受戒式」の「ネット公開」をするのは日本で初めてなのですから。しかしながら私は「真如み教え」のお陰で、平成11年の「接心」による「鬱病」の宣告、挙句には平成12年12月の「脳梗塞」発症と、通常では考えられない様な「信じられない経験」をしてきたのです。結局、左脳の1/3を失い、「高次脳機能障害(失語症)」を患ってしまいました。「お力」などとんでもない! 「真如み教え」なんぞ、ケツ食らえ!!「真如苑」という、極めて特殊で「破壊的」なカルト教団の真只中にいる教徒達からは、「苑の欺瞞性」に気が付くこともないでしょう。
(「反苑の会」HPより抜粋)

  阿含宗・真如苑・創価学会と順番に個人的感情からけなしているようですが、卑見妄想では自分の霊的環境として、目に見える3次元世界では創価学会、“化身”のレベルでは主に阿含宗(真如からも創価からも来ます)、そしてそれらを背後から操る根本的な怨霊、私の悪因縁を殊に増幅する魔性の霊として真如苑(の摂受機能)・・・という重層構造で見ているのです。勿論これは潜在意識の顕現ですからその内にインプットされているものは現れると思います。ですから万が一私や家族、親しい人を呪う人間が現実にいたとしても、彼らを背後から洗脳し操る霊的パワーが存在し、そこを浄化しなければ、私の問題は収まらない、と個人的に考えているわけです。

  この3教団を「身延系」と私は勝手に分類してしまいますが、「姫路に旅行しようかな~」と思った瞬間に姫路で炎上事件が起こるわけですから、これは具体的組織の監視以前に、霊憑依を疑った方が妥当かなと思っています。引用文を読めば桜塚やっくんが真如苑を批判したのでないことは一目瞭然なのですが、だからこそ「日本語を斜め読み・浅薄にしか理解できない」霊というものを想定しているわけです。「真如」とは仏意一筋・真理貫徹・どこまでも添い遂げるの意味だと会員の方は教わると思います。「如実」という言葉もありますね。しかし教団霊の動きを見ていると真如苑とは「あたかも仏教や真理の・ようなもの」に思えてきてしまいます。「如」の意味を教団の霊が勘違いし、理解できないのです。このような霊がどうやって信者を仏意一筋に導けるのでしょうか? 結局「の・ようなもの」にどこまでも信者が添い遂げようとする珍現象が続いていくのです。

  真如苑の霊は愛欲を厭離させ出家を促し、阿含宗の霊は先祖供養を推進します。それは宗教的に意義ある事かも知れませんが、教団の拡大に伴い軽薄な風潮も混濁して、この思念が増幅し“怨霊化”していると思っています。浄化法があると謳っていますが怨霊は怨霊を引き付けるので一見勢力の拡大に見えますが、元々が浄化された霊ではありませんから、これらをいくら拝んで変化を経ても浄化には至らないのです。

  関係者を導くための宿命的な死亡・事故・破産・不和に見えますが、これも教団が商売のために小さく眠っている悪因縁に故意に空気を入れて暴発させ、マッチ・ポンプを演出している部分があると思います。だから最も功徳を積んでいる筈の教祖一家にトラブルが絶えないのでしょう。真如苑は身延系の霊能、阿含宗は身延系の滝行に皇道治教を足したものからスタートしました。後継者に交代しても拝んでいる当の本尊の霊的内部構造はそのままです。どちらも身延系の占い霊能を真言宗の外観で飾ったものですから、結局どうとでもとれるご託宣の不備を穴埋めするために強烈な念力で煙に巻く、といったプロセスを取らざるを得ないと思います。

  なお、私が創価学会における現象を批判はしても比較的宗教的霊的な批判が少ないのは、私が真言密教の信者であることと、日蓮曼荼羅は基本的に神道や他の宗派と併修ができないからです。いったん日蓮宗以外の神仏を破棄することを要請されるので、試しに拝んでみる気にはさらさらなれず、真言宗で宗教的満足は充分に得ているので、正直日蓮宗という宗派に余り興味はありません。ただ政治と宗教という観点から創価学会の欺瞞を指摘したいということです。日本の世相における影響力は決して看過できません。

  中務左衛門尉殿御返事
1524 日蓮が下痢、去年十二月三十日事起り、今年六月三日・四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存ずる処に、貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて、今百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給うか。地涌の菩薩の、妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり。

  上野殿母尼御前御返事
1896 文永十一年六月十七日、この山に入り候て、今年十二月八日にいたるまで、この山出づる事、一歩も候はず。ただし八年が間、やせやまいと申し、としと申し、としどしに身弱く、心耄候いつるほどに、今年は春より、この病おこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々におとろえ、夜々にまさり候いつるが、この十余日は、すでに、食も殆ど、とゞまりて候上、雪はかさなり、寒はせめ候。身のひゆる事石のごとし。胸のつめたき事氷のごとし。しかるに、この酒温かにさし沸かして、かつかうをはたとくい切て、一度飲みて候えば、火を胸にたくがごとし、湯に入るににたり。汗に垢あらい、しづくに足をすゝぐ。

  兵衛志殿御返事
1525 みそおけ一つ給び了んぬ。はらのけ(下痢)はさゑもん殿の御薬になおりて候。又このみそをなめて、いよいよ心ちなおり候いぬ。あわれあわれ今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候え。

  波木井殿御書
1931 日蓮ひとつ志あり。一七日にして返る様に、安房の国にやりて、旧里を見せばや、と思いて、時に六十一と申す、弘安五年壬午、九月八日、身延山を立ちて、武蔵の国、千束の郷、池上へ著きぬ。
(日蓮宗教化センターHPより抜粋)

  題目で下痢になったのか、題目が下痢の苦悶を癒したのか、よく解りません。

2013年12月

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ルミガン効果
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