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現代を斬る~時評と考察

世相を描いた文章と雑談から、政治と宗教の現実を読み解き、考察のヒントを探ります。

法華経と聖書

  法華経は、仏教の発祥地インドでは、ほとんど見向きもされなかった経典です。しかし、大乗仏教の伝わった中国や日本では、非常に重要視される経典となりました。今日、中国の大乗仏教はほとんど消滅状態にあるので、日本は、法華経が今なお篤く信奉されているほとんど唯一の国です。天台宗では、法華経を"第一の"経典とし、日蓮宗では、法華経を釈迦の"唯一の"真の教えとしました。こうした宗派では、法華経は絶対的な権威を持った経典なのです。近代の仏教系新興宗教の中にも、法華経を信奉するものが、数多く現われました。「霊友会」「立正佼成会」「創価学会」は法華経信奉団体ですし、「アメニモマケズ」の宮澤賢治も法華経信者でした。

  法華経は、いつ頃記された経典なのでしょうか。学者によると、西暦1~2世紀にかけて記されたとされています。立正大学の田村芳朗教授は、こう述べています。「方便品第二から授学無学人記品第九までを第1類とし、西暦50年頃の成立と見なし、法師品第一〇から囑累品第二一までと序品第一とを第2類とし、西暦100年頃の成立と見なし、薬王菩薩本事品第二二から普賢菩薩勧発品第二七までを第3類とし、西暦150年頃の成立と見なす」。法華経は、西暦50年~150年頃に記された、とされているのです。それまで口伝で伝えられていたものを経典としてまとめた、というわけです。釈迦が在世した時代は紀元前6世紀ですから、法華経は釈迦の死後、じつに約600年もたって記されたことになります。

  実際、現代の学者がインド原典について調べた結果、法華経の原典に出てくる単語は釈迦の時代のものではなく、ずっと後世のものであることもわかっています。これはちょうど、20世紀に生きる人が、14世紀の人物、たとえば後醍醐天皇の伝記を書くようなものです。そんなに昔の人物に関して、正確なことを書くことがいかに困難であるかは、ちょっと想像してみただけでもわかるでしょう。

  次に、法華経の内容について見てみましょう。法華経には随所に、法華経自体に対する賛辞の言葉が記されています。たとえば、「私(釈迦)の滅後(死後)、この経を信じ、他者のために生き、努力するなどの行ないをする者は、その功徳は大空が地をおおうほどのものである」「人々の中にあって、もし法華経を信じ、あるいは読み、唱え、説き弘め、書写する者があれば、その眼、清浄にして8000のすぐれた能力を獲得するであろう。その者は、全世界の何であれ、くまなく見ることができる。下は地獄から、上は神々の世界に至るまで、そのなかの一人一人の様子をも明らかに見る眼を持つであろう」

  これらはほんの一部ですが、法華経自体が、法華経を信じる者に説いている功徳の例です。法華経は、こうした自画自賛に満ちているのです。『日蓮の本』(学研)と題する解説書には、こう記されています。「法華経には、常識的な考えではとんでもないような空想的な話が、次から次へと出てくる。それよりも不思議なのは、法華経というありがたい経典があると、法華経の中で説かれていること。遠い昔から多くの仏が説いてきた究極の経典が法華経であり、信じる者には無限の恩恵が与えられると、繰り返し語られている。

  しかし、そのありがたい法華経自身の中身は何かとなると、まったく語られていない。こういうのを自画自賛というのかも知れないが、法華経が法華経をほめちぎった経典が、いわゆる法華経という変なことになっているのである」法華経の内容は、大部分が自画自賛で、肝心の中身はほとんどない、と感じた人々は昔から多くいました。これがいわゆる「法華経=無内容説」で、かつてそれを説いた一人に、平田篤胤がいます。彼は、法華経は"中身のない能書き"だと評しました。富永仲基も、「法華経は自画自賛ばかりで、教理らしきものがなく、経と名づけるに値しない」と言っています。

  現代の仏教学者の中にも、法華経には理論というものがない、と評する人が少なくありません。田村教授も次のように述べています。「法華経にざっと目を通してみると、効能書きのみで内容がない、との感を受ける。前半では教説らしきものが見えるが、分析的でなく、精密な理論の展開は存せず、後半になると、盛んに法華経を信奉することの功徳が説かれてくる。極端な言い方をすれば、法華経とは法華経の賛嘆でしかない、ということである。法華経とは何か、ということは語られていない」

  たしかに法華経は、教理を説いた所が非常にわずかです。しかし、全くないわけではなく、幾つかの新しい思想も説いています。「一乗妙法」とはすべての人を平等に救うことのできる唯一の教えがあるということであり、「久遠本仏」は永遠の救い主がおられるという教えであり、また「菩薩行道」は人生において伝道が非常に重要であることを説いたものです。

  このように考えてみると、これら法華経の3大思想は、聖書の教えとの間に明確な共通点を持っていることがわかります。これら法華経の3大思想と本質的に共通するものを、すでに聖書が説いていたのです。まず、"すべての人を平等に救うことのできる唯一の教えがある"ということから見てみましょう。

  聖書は、声聞・縁覚・菩薩というように、人々の能力によって教えを変えるようなことが、もとよりありません。すべての人に対して、ただ一つの教えを説き、その教えによってすべての人は平等に救われると説くのです。その教えとは、神の御子イエス・キリストを自分の救い主と認め、その十字架による罪の贖いを信じ、彼に従っていくことです。この教えに従うなら、だれでも救われます。そこには、声聞・縁覚・菩薩というような別はありません。国籍や、老若男女の別もありません。幼児でも、障害者でも、病人でも、ただ一つのこの教えによって救いに入るのです。聖書は言っています。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(二コリ五・一七)聖書は、一乗妙法を説いているのです。

  つぎに、"永遠の救い主がおられる"という教えはどうでしょうか。これも、聖書が説いているところです。救い主イエス・キリストは、久遠の昔から永遠の未来まで生きておられるかたです。彼は万物の存在するようになる前から存在し、また永遠の未来まで存在されます。「御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロ一・一七)。聖書では、永遠の救い主がおられ、その方はイエス・キリストである、と説かれているのです。

  では、永遠の救い主は聖書でキリストとされ、法華経では釈迦であるとされているのは、なぜでしょうか。先に述べたように、法華経は西暦50年以降に記されました。当時のインドには、すでにキリストの12弟子の一人トマスが、伝道に入っていました。トマスが建てたと言われる教会も現存しています。トマスはまた、その後中国へも伝道に行ったとのことです。

  この頃のインドは、ローマ帝国との交易も盛んで、キリスト教のイエス・キリストに関する教えは少しずつ入り始めていました。こうした事情から、他宗教に対抗しなければならないという思いを持った仏教徒の中には、人間釈迦を"永遠の救い主"に昇格させ、神格化しようとする者が現われました。インドの高名な宗教学者アーマンド・シャー博士によれば、キリストの使徒トマスの福音に対抗して、釈迦を聖人から救い主に昇格させたのが大乗仏教である、とのことです。つまり"釈迦は永遠の救世主である"という法華経の教えは、"キリストが永遠の救い主である"という聖書の教えの、仏教的"焼き直し"なのです。
(レムナント出版HPより抜粋)

  日本で仏教精神を最初に広めたのはご存知聖徳太子。法華経を信仰の中心に据えた彼の別名は“厩戸皇子”です。家康も天海大僧正によって法華経で祀られたりと、妙法蓮華経はすっかり日本仏教の顔として定着していますが、本文の通り、これ実はキリスト教なんですね。難解な仏法を説いた釈迦の後世、現世利益と共同体統治の役割も果たすキリスト教は殉教も辞さない宣教師の布教によって怒涛の如くアジアにも広まりました。中国・朝鮮・日本は仏教とキリスト教を「異郷の教え」として兼学する教養人・宗教家(これも兼任が多かった)によって、その土地の文化と融合していったようです。

  空海は国際都市長安でインド僧・般若三蔵から様々な情報を得たそうですが、その中にキリスト教(景教)もあったようです。大秦国王安敦碑も高野山にあるんですよ。天台宗は真言密教に傾倒する僧侶が多く、後年法華と密教は同等とまで称されるようになりました。浄土・日蓮はキリスト教的で、民衆の一揆の旗印にもなりました。禅は近年、キリスト教に失望した欧米人の注目を集めているようです。

  本来がキリスト教ですから、法華経の中に仏教の教えを探すのは困難です。ただ「信ぜよ、広めよ、功徳がある」ですから。ただ日本には法華経信仰の伝統が根付いていますから、現代人でも法華経の「思念フィールド」「共同体ネットワーク」に出遭うのは容易いわけです。そうすると自宅が火災で炎上し、長男が不遇で逆に父親から優遇され、目的達成(獲得)の寸前に対象が消えたり嘘がばれたりする現象が実際に起こるわけです。これは法華経の教えが真実だからではなく、ただ共同体の思念に宿っている伝統的な観念が現出したに過ぎません。

  「キリスト教が戦争を起こす」という俗言の通り、法華経教団同士も仲が悪い。一向宗と法華宗が一揆で激突し、叡山は法華宗を弾圧しました。戦前は日蓮宗信者が2.26事件や日中戦争を起こし、創価学会はイラク派兵に道を拓きました。この宗教のいつ・どこで世界平和が来るのでしょうか。法華経宗派以外を全滅しなければ気が済まない、一神教の特徴を多分に受け継いでいるといえるでしょう。実際には真摯な善男善女を弾圧・懐柔しているではありませんか。

  脱線して新興宗教について触れれば、立正佼成会は法華が看板ですが、実際は釈迦の教えを重要視しているようです。逆なのが阿含宗で、阿含を建前に内実は創価学会です。真如苑も台密・東密・真如密というからにはやはり法華経と関係がありそうです。教祖は身延方面の出身の筈です。大般涅槃とか金棺出現の釈迦、法華経の自我偈という概念がまさにキリスト教的なのです。「火宅」「放蕩」「化城」といった方便も含めて、こうしたキリスト教的概念を詰め込んでいけば、元々易しくはない釈迦の仏法からますます離れ、難解に感じるのは当然のことでしょう。仏舎利尊・上座部のご当地、東南アジアにしても、大航海時代の植民地化とともにキリスト教が強制されて、仏舎利が十字架と被っているのは当然の現象なのです。オウム真理教は密教の起源がヒンズー教だからといって直接シバ神を拝んだわけです。そしたら魔が差して破壊活動をやらかしてしまいました。阿含宗や真如苑は複数の本尊・真言宗の所作を用いて、巧妙に「管狐・猫又」「奪功徳魔」の2大本尊=「妙法蓮華」と「第六天魔」に相当~を「法華経」で拝んでいるような気もします。

  で、結局ナニが言いたいのかというと、イケメンの項でも触れたように、自分の長所と短所を分断分離して一方に執着し、他方への転移を志向している人が男女問わず多いと考えられます。すなわち自分の自我を「全的優性」か「全的劣性」の二者択一とし、その両者の間を絶えず“反復横跳び”しているような精神状態です。これを止めて、「自分とは長所と短所の表裏一体、一枚のコインなんだ」と思えば無意味感・無力感・虚脱感を感じても、新たに仕事やプライベートにやり甲斐や愉しみを見出せるようになって来ると思うのですが、そしてそれには「努力は要らない」と思うのですが、如何でしょうか。「努力が不要だ」とはトレーニングが不要だと言っているのでは勿論ありません。ダイエット・宗教・学習・スポーツ・仕事などにおいて、努力するとき、自分が目標としているものは具体的な達成なのか? それともその達成によって得られる賞賛・報酬・権威ではないのか? でもここまではOKなのです。問題はその後、その「賞賛・報酬・権威の現実感」に酔狂し、自分自身の中で「ああ、私は全的劣性から全的優性への“転換”を成し遂げてしまった、達成してしまった」といわゆる善男善女ほど、そう思い込みやすいのです。「一人前」「大人になる」という先輩の説教が強迫観念になっているのですからなおさらです。

  しかし本人の思いとは裏腹に、コインの片面に固執すれば現実は否応なく、もう片面を突きつけてきます。自分の実績や時流が変動するのですから、賞賛・報酬・権威も変わる。それらが失われたときに、今度は「全的な優性」から「全的な劣性」にシフトしたと考えて、「あー、俺はもうダメだ」と引きこもり、ホームレス、自殺を考えてしまうのです。念力による願望実現の弊害もここにあります。しかし、ここが不明瞭な人は、法華経にはまりやすいのです。そして商業主義全盛の社会状況が、この個人・集団の自己分裂にますます拍車をかけているのです。その現象化が格差社会の惨状に他なりません。お金になればすべて善、損得離れればすべて悪という皮相的で一元的な価値観、カネの遣い道が判らないヒルズ族も、街角のホームレスも、そして我々一般庶民もこの仲間です。しかも拝金的な価値観は健全な経済活動をも破壊してしまいます。その原因は心にあるでしょう。グルメな美食と生ゴミは同一物なのに、好悪の感情からその間に絶対的線引きをしたくなる自分がいるわけです。好き嫌いはあるけど、そういう線引きはできないなー、と断固諦めるべきなのです。いま簡単にできる人もいれば、ノイローゼを通過する人もいるでしょう。出家・遁世するばかりではなく、健全なお金の流し方を学んで行きたいものです。

  宗教精神から人助け・布教に邁進しているのに、何故か他人からは破壊的・暴力的に映る、法華経やキリスト教は自画自賛が強いだけにこうした側面を強く持っています。常に相手が悪いと初めから決め付けてしまう。それだと戦争対決しかありません。煩悩の中に菩提を見るように、菩提の中にも煩悩を見なくてはいけないということでしょうか。罪業深き自分が神仏の救済と一体化するという信念は思い込み、フィクションなのですが、これは自我の安寧をもたらします。「俺は神と一体だー!」と叫んで信号無視を繰り返すような人は逮捕有罪、精神病院送りされて当然でしょう。一神教的価値観は自我の分裂から来る欺瞞をもたらし、釈迦・キリストへのカリスマ崇拝でさえ、ファシズムと同じことなのです。まとまりませんでしたが、まあ言いたいことは言えたかな?
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笑えないお笑い番組のお粗末精神(天木直人)

  6月21日の日刊ゲンダイにおいて、上智大学の碓井広義(メディア論)という教授が「テレビとはナンだ!」というコラムで次のように書いていた。

  ・・・土曜夜8時といえばゴールデンタイム。そのゴールデンタイムに放映されているTBSの「奇跡ゲッター、ブットバース!!」の先週の番組「芸人どん底月収ベストテン~夫を支える芸人いい妻№1決定戦」はひどかった。 もっとも低かった月収を「どん底月収」と名付け、ランキング形式で当の芸人とその妻を紹介していくのだ。 芸人で収入が低いのは売れていないからで、視聴者は名前も顔も知らない芸人ばかりを見せられることになる。第3位はどん底月収9800円。第2位は7500円。そして第1位がズバリ0円。これのどこを笑えというのだろうか。ちなみに、司会はネプチューンだが、彼らは立派な収入を得ているはず。またこの番組のプロデューサー氏の父親はTBSの朝の番組を仕切るみのもんたで、ギャラが高額なことで有名。そういうスタッフ、出演者が、売れない芸人はそんなものだとして、低収入ぶりを笑いのネタにしている。そのセンスが情けない。土曜8時が泣いている・・・

  近年久し振りに読む名記事だ。ジャーナリズム精神に溢れた記事だ。それにしてもいつから日本のテレビ番組はこんなに低俗になってしまったのか。それを許す視聴者である日本人はこんなに醜くなってしまったのか。こんな淋しい日本になってしまったのだろう。
(6月22日)

  この天木さんの簡潔なコラムに対しては、多大なる反響がありました。番組内ではいじられても、実際にはゴールデンタイムで顔と名が売れて、今後の営業に寄与するはずだったのでしょうが・・・

   TBSに勤務する、みのもんた長男、御法川隼斗氏(31)が局内でお荷物状態になっている。隼斗氏は02年にTBSに入社。アナウンサー志望だったが、希望が叶わず営業局に配属。09年に編成制作局のディレクターとなり、昨年4月にプロデューサーに昇格した。ところが担当番組がいずれも短命で終わってしまっている。

  まずは昨年4月にスタートした「ウンナンのラフな感じで。」裏番組が父親のみのが司会を務める「秘密のケンミンSHOW」だったため、“父子対決”が注目された。ところが視聴率は開始時から5%前後を低迷。昨年TBSのEXILEの冠番組に父子共演したが、「ウンナン」の数字には結びつかず、番組は僅か4ヶ月で打ち切られた。

  昨年11月に再びチャンスが到来した。TBSの土曜夜8時という看板枠の新番組、「奇跡ゲッター ブットバース!!」のプロデューサーに抜擢されたのだ。しかし裏番組が強い上、内容が“奇跡”とかけ離れていたこともあり、視聴率は7~8%台と低迷。秋改編で打ち切られることが先日決定した。隼斗氏の“終了”はこれで2度目。
(日刊ゲンダイ、6月28日、抜粋)

  お父さんは文化放送退社からニッコクの艱難期を経て再び国民的テレビ司会者に返り咲いたわけですから、息子さんも何らかのビジョンを構築する必要があるのかも知れませんね。2世も恵まれてる反面、大変だ・・・ 

外務省のどこが「伏魔殿」?

  外務省官僚が機密費をネコババして「競争馬」を買った、愛人の「豪華マンション」を購入したといった、同省官僚たちの底無しの金銭スキャンダルが噴出した2000年。外務省はかつてない批判の矢面に立たされ、ついには御用になって幾人かの同省官僚が塀の中に落ちた。

  東京・世田谷区内に、同省の独身寮がある。長く務めた同寮の元管理人の話によると、寮の住人たちは、いずれも難関の国家試験をパスしたエリート中のエリート揃い。確かに語学に優れ、頭も切れるが、なぜか“奇特”の人が多かったという。深夜、部屋で“一人”で「椅子取り合戦」に夢中になっている人や、共同風呂の中で脱糞をする、ふとどきな入寮者もいたようた、

  ある夏の夜のこと。開けっぱなしにされた2階の窓から、外に唸るような声が漏れてきた。最初は歌かと思ったが、耳をすまして聴くと、どうもお経のようである。それも「南無妙法蓮華経」という題目を唱える声だった。後日、くだんの声の主の部屋に入る機会があった際に、仏壇や、束ねてあった聖教新聞などを見て、熱心な創価学会員であることが分かった。

  宗教に鷹揚な管理人は、他の住居者に迷惑をかけなければ、若者が信仰を持つとはなかなか感心とばかり、温かく見守った。が、困ったのはこの人物の悪い性分である。時々、2階の窓なら外に向かって放尿していたという。温厚なさすがの管理人も、これには注意した。

  人数は明らかではないが、大臣官房文化交流部長を務めるHのほか、外務省OBでは、文化交流部文化第二課長職を務めた遠藤乙彦公明党代議士など、創価学会員の外務省官僚が相当数いる。実際、同省内に、「大鳳会」という学会員だけの組織も存在し、その絆もまた深い。むろん職業が官僚であっても、どのような教団組織に所属し、信仰活動に従事しようとも自由である。ただし、一般社会や国民への奉仕を原則にする公僕は、職務を利用し、特定組織や信奉する教団に利するような行動は慎まなければならない。

  国会でも、質疑(1996年4月1日、衆議院・予算委員会)されたことがあるが、SGIが外務省を“私物化”しているような文書が発覚したことがある。1988年1月6日、「The SoKa Gakkai」と印刷された学会の事務専用用紙に書かれた文書が、同会のH事務総長名で、小和田恒・外務省官房長宛てに出された。内容は、SGI会長の池田大作が香港並びにアセアンなど3ヶ国を訪問するので、便宜を図ってくれという要請書である。国会でとくに質疑されたのは、この文書の中の次の下りだった。

  「各国大使館、総領事館におかれましては入国、出国の際の空港内の特別通関等の便宜供与を宜しくお願いします」特別通関とは、外交用語の一つで、出入国手続きを一般の旅行者等と違って特別に優遇すること。つまり、別室で入国管理局の職員がチェック(簡易通関)したり、代理人が通関の手続きをするといったもの。一般には、大臣組がその対象になる。

  要するに創価学会は外務省に、池田一行の出入国を大臣級の扱いにしてくれと、厚かましい要請をしたのだ。これは、宗数団体が国に特権を求めているもので、もし、これを外務省が認めるとしたら、「いかなる宗数団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」 という、憲法20条に完璧に抵触することになる。
(段勲『SGIの実像』2003年リム出版刊より抜粋)

「理想の国語教科書」に一考(渡辺知明)

  それでは、なぜ齋藤氏は、おとなでも難しい文章を「理想の教科書」として選んだのでしょうか。わたしも教科書の作品をただ単に子どもたちの現状のレベルに合わせてやさしくして行くだけではいけないと思います。教育によって子どもを成長させることを前提にしなければなりません。努力すれば読みこなせるくらいの内容にするべきです。しかし、齋藤氏のあげたリストには賛成できません。小学生に、どうして「夢十夜」や「マクベス」や「ファウスト」を読ませるのでしょうか。

  齋藤氏は自分の好みで作品の選択をしているのではないかという気がします。国語科教育とは何か、教科書をどう編成するのかといった配慮が感じられないのです。齋藤氏はリストの作品を選んだ理由として四つを上げています。第一の基準として「すごみ」、第二に「あこがれ」、第三に「生の美意識=倫理」、第四に「筋があってわかりやすくかつ深い味わいがある」ということです。

  はじめの三つは哲学的な色合いのある主観的なものです。「すごみ」「あこがれ」といった心情を教科書の教材選択の基準にするのはおかしなものです。基準はやはり国語科教育とは何か、その目的は何なのかという根本から考えられねばなりません。

  齋藤氏は国語科教育の本質についてどう考えているのでしょうか。わたしが齋藤氏の文章から読んだ限りでは、実用的なコミュニケーションの能力の養成にとどまっているようです。
 
  わたしの考える国語科教育の本質とは、日本語を母国語とする子どもたちの言語能力の養成を中心として、日本語の知識や教養へと広げられるものです。つまり、「読み・書き」「話し・聞き」といった言語行為の基礎的能力を通じて、自ら自立して学べるための能力の養成です。いろいろな科目がある中で、言語能力に関わる教育に責任を持つのが国語科教育なのです。それは実用的なコミュニケーション能力にとどまりません。「読み」においても、ただ単に情報を取り入れるだけではなく、文章を理解し、解釈するとともに、その内容を評価し、批評できるような能力の養成を目ざすべきです。

  ですから、このような能力の養成のためには、教科書の作品選択も、筋を読みとるような文章ばかりではいけません。現行の教科書では、「読み」の能力を高めるために、二つの分野の文章を区別しています。論文や解説文などの「説明文」と、詩や物語などの「文学文」の二つです。齋藤氏のリストはもっぱら「文学文」の分野の作品ですから、「教科書」というよりも、文学教育のための副読本といえます。しかも、齋藤氏の朗読の考えには、「文学文」の特殊な表現方法についても意識されていません。ですから、どんな文章でも、同じように「朗読」するものと考えられているようです。

  齋藤氏の「朗読」と「読み」の実践は、さまざまな問題点を含んだものです。「朗読」についても、「読み」についても理論はなく、通俗的な考えかたに終わっています。おそらく、専門である身体論に裏付けされた実践の部分は有意義なものなのでしょう。しかし「朗読」も「読み」も「体育」ではなく、やはり国語科の分野として教育されるべきです。
 
  齋藤氏が「朗読」に関する本の著者であるために、今後も国語教育についても期待されることが多くなることでしょう。しかし、残念ながら齋藤氏の示した「理想の国語教科書」は国語科教育のためにふさわしいものではありません。また、「朗読」の方法についても特別な提言はありませんし、文章の「読み」の方法も、子どもたちの読解力や思考力を育てるものとは言えません。

  わたしは齋藤氏のベストセラー本によって今、日本に「朗読ブーム」が起こる可能性があると思います。齋藤氏の本は、文章とはただ黙って読むものばかりではないという考えを広めました。そして、より多くの人たちに、声を出して本を読む楽しさや喜びを広げつづけています。

  わたしは「朗読」を一時のブームに終わらせずに、文化として定着させるためには次の段階が必要だと考えています。それは「朗読」と「読み」とを結びつけた新しい朗読理論です。日本の文化には、講談、落語といった「語り芸」の伝統があります。これまで「朗読」はもっぱら音声理論の面から研究されてきましたが、新しい理論は「語り」の発展として成立した小説に代表される文学作品の音声表現の研究です。つまり、文学作品に織り込まれた語りの構造を音声表現としてよみがえらせるための理論です。
(2002年4月10日、抜粋)渡辺知明氏の著書・論文一覧はこちらから

  いっそのこと小学生には三島由紀夫作品ばかりを朗読すれば狙った教育効果も上がると思うのですが・・・で最後に日の丸ハチマキしめたセンセイが日本刀で割腹自殺してみせれば児童は全員号泣、教室はもう大騒ぎ・・・って勿論冗談ですが。私はスクワレン(=救われん?)サプリを飲んでいますが、偏差値が低く、おバカ丸出しです。ただセサミンシリーズは効果が感じられると思いますよ。サントリーは好きなんですw 三島先生や斎藤教授を敬愛する方は読まないで下さいね。
  

原発村と信濃町(FORUM21)

  ・・・思うに、今度の事故において、日本の原子力政策の根本的な矛盾と退廃が一挙に噴出してしまった格好になっている。しかし、そうした構造的な腐敗を生み出す要因となっていたのが、当事者同士がもたれあい、庇い合う事でコトの真相を隠蔽し、とりわけマスメディアをはじめとする報道機関がこれでもかという位原発の「安全神話」を振りまいて来たような排他的な癒着・捏造体質である。しかし視点を変えてみると、こうした状況はまさに創価学会=公明党・池田大作に対するそれと見事なまでに符合していると気づく。

  安全性において致命的な欠陥を持つ原発エネルギーは、政・官・財・学が一体となった「原発村」と呼ばれる癒着構造によって、世間の批判を振り切ってなし崩し的に導入された。さらにそこにマスメディア(報)も加わって、性懲りもなく安全神話を振りまいてきた経緯がある。原発村による「マスコミに対する操縦術」を見ていくと飴と鞭、すなわち「巨額広告費」と「恫喝」である。東京新聞が09年度の東電による対マスコミ宣伝費が約90億円、交際費は約20億円にも上っていた実態を報じている。一方、原発の危険を警鐘した学者を採り上げた大阪の放送局に、電力会社が抗議して番組からの広告を引き上げた話、また広島のテレビ局が低線量放射線被曝問題を放送した際に、地元の電力会社が広告撤退をちらつかせた事で、番組プロデューサーが左遷された件を紹介している。

  さらに原発村の中核である東大工・原子力工学科の1期生である安斎育郎立命大教授が証言する。「原子力政策を批判したら村八分に遭い、東大では助手を17年間やっていた。講演に行けば尾行が付き、研修医と称した東電の社員に隣の席で見張られ続けた。その一方で、カネは出すから3年間米国に留学してくれと、買収とも厄介払いともつかぬ提案までされた(週刊ダイヤモンド)」こうした光景を見ていくと、“どこぞやの組織”が長年やってきた謀略と余りに酷似している事に気づく。そう、「原発村」ならぬ「信濃町」こと創価学会=公明党・池田大作がこれまでに散々やり尽くしてきた手口なのである。

  創価学会=公明党・池田大作は「巨額広告費」と「恫喝」という飴と鞭によって出版・テレビ・ラジオは勿論、さらに学者や文化人・芸能人・ジャーナリストらをいいように籠絡させてきたのは公然周知の事実だが、さらに一歩踏み込んで問題点を指摘したい。

  ひとつは、そうやってカネと恫喝によって籠絡された取材者と謝罪対象の間には、奇妙な「癒着関係の安定」が構築されるという事である。後日そこにいかなる危険や不祥事・問題点が生じたところで、取材者としての報道機関側は徹底した「見ざる・聞かざる・言わざる」を断行する。何となく「これはおかしい」と思ってはいても、それ以上先の本格的な取材行為を止めてしまう。そしてジャーナリストに不可欠な「批判精神」を削ぎ落とされ、「裸の王様」の誕生に一役買ってしまうのである。

  さらにもう一点、創価学会=池田大作は「世界平和」「核廃絶」というスローガンを極めて熱心に唱えてきた。ところが一方で自公連立の99年体制において、公明党は政権与党としてこの原発推進の牽引役を果たして来た事実である。

  日本においても原発は核兵器と非常に密接な関係がある。我国初の東海原発は英国製の黒鉛炉だったが、これは発電所のまま操業しても、年間6~10キロの軍用プルトニウムを生産することができる。通常の原爆に使用される濃縮率は94%以上であるが、その後開発が進められた「常陽」「もんじゅ」といった高速増殖炉が生産したプルトニウムは濃縮率が約100%の“超軍用”であった。これらの事実は日本の原発導入が「核保有の意志」と分かち難く結びついていた事の証左である。
(古川利明、6月号、抜粋、改変あり)

  「世界から核をなくそう、池田名誉会長と平和への大行進」と信者から財務金と票を徴収し、公明党は原発利権の恩恵に預かる・・・信者を裏切って「政教分離」は実践されているのかも知れませんねw たまには褒めなくっちゃ悪いでしょ? 創価学会は「嘘も千回つけば真になる」を座右とする教祖に習って世間を欺くタイプと、教条を信じてひたすら貢ぐタイプの2種類の人たちがいるそうですよ。原発と創価は「反共の砦」として自民党ら権力による利権汚職への批判を強力に封じ込め、懐柔する役割も担ってきたわけですが、さて今後はどうなるか? 日本国民ひとりひとりに“民主主義への本気度”が問われることになりそうです。

消費税増税は、雇用を破壊する(オリーブニュース)

  日本の消費税は、所謂、付加価値税である。納税義務者は事業者である。国税庁は、以前は「預かり金」と説明していたが、最近は「預かり金的」と表現している。いくつか非課税とされている税目を除き、基本的に付加価値は、粗利益を指す。消費税の原理は以下の数式で表される。(非課税適用を除く)

   (売上-仕入れ)×税率=消費税

  消費税は、付加価値にかかる税金であり、構造的には消費される財やサービスに課税され、製造業者やサービス業者が代理徴収の形式をとる。しかし【納税義務者は、前述の事業者】であり、消費者が毎年申告するものではない。導入当初は外税であったが、2004年4月1日より総額表示に変わり、所謂、内税となった。

  だがここで問題となるのは、大手の製造業者の多くは卸を経由して小売業に販売しているため、その段階では消費税は外税表示である。一方、消費者に対する小売業者は、総額表示のため、この段階で消費税の実質的負担者は曖昧になっている。

  国内総生産(GDP)とは、一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額である。さて、消費税の原理からすれば、消費税は粗利益に掛かるから、損益計算上は最初に消費税分として預かり金的に処理することになる。

  しかしもし事業者の売上が増えない状況に於いて、消費税率が10%に上がれば、自ずと事業者の実質的粗利益が減少する。実質的粗利益が減少すれば、それは個々の事業者の収益力に無関係ではないものの、全体の賃金支払力や機械等設備投資力が減少する。賃金支払力が減少すれば、所謂、雇用力が減少する。あるいは、賞与や昇給が減少する。すなわち損益計算上は、所得税も法人税も減ることになる。

  なお大企業は、消費税を転嫁できているから困らない、がしかし、市場全体では実質的な付加価値が減少する。その消費税が仮に10%となれば、税収は増えるが、その税収を仮にプライマリーバランスの使途や大企業の法人税減税に使ってしまうと、結論として国の生産力に大きな影響を与える。

  つまり、消費税増税は更に雇用を破壊し、あるいは、賃金を押し下げ、勤労者所得を減少させ、社会保険の負担者減(給付減)を招く。他方、輸出大企業は消費税還付が10兆円規模に拡大し、その大企業の株主の過半は外資であるから、配当金ガッポリである。法人税の引き下げが行なわれれば、減税は増収であるから、これも配当金ガッポリである。しかも大企業は前述のとおり消費税を転嫁し得る。整理すれば消費税増税は以下のとおり。

  1)国民は更に生活が苦しくなる。
  2)消費税を転嫁できない中小零細は益々苦しくなる。
  3)実質的付加価値の減少は、雇用を破壊する。


  したがって消費税増税とは、国民と弱小事業者から搾取し、大企業に富を移転する天下りシステムの完成を企図するものである。
(1月13日)

  原発だって「コストが安い」「地元も潤う」「核利用の研究が進む」とか一石何鳥もの効果を狙いましたが、結局は杜撰な計画・未熟な技術のまま反対派を押し切って見切り発車、現状は「膨大甚大な賠償額」「健康・財産の多大なる脅威・犠牲」「世界各地に脱原発の流れ」という結果を招いたわけです。震災後の日本にまず結論ありきで消費税を増税すれば、社会保障以前の通常の消費・通常の雇用が破壊され、それらの困窮組に救済策を講じる必要が生じ、日本の生産力も競争力も低下して弱っていくのです。社会不満もますますヒートアップして社会保障も破綻・経済も破綻・財政も破綻という顛末になりかねません。震災前から日本はデフレで弱っているわけですから、当分は国債発行と累進性の強化で凌ぎ、その間に公務員改革を軸にした社会の仕組みの改革断行を進めるしかありません。高度成長はおろか、終身雇用も終焉した現在、「消費税の逆進性は、右肩上がりの生涯収入で帳消しされる筈」という論理は現実を無視した詭弁・暴論以外の何物でもありません。

政府税調・神野直彦氏提唱「消費税と所得税は車の両輪」

  菅直人首相と民主党が掲げる「強い経済、強い財政、強い社会保障」の一体的実現というフレーズの生みの親。「増税をしても、財政支出の使途さえ間違えなければ」という表現も、神野氏が2001年に著した『二兎を得る経済学』にある。カンジアン研究会(菅政権の経済政策を支えるブレーンらに聞く)の初回にふさわしい登場となった。政府税調の専門家委員会の委員長だが、あくまで個人の見解とことわったうえで、専門家委員会がさきに発表した「論点整理」の概要と、その背後にある理念について、図表を駆使して丁寧に説明した。

  まず、「安心して産業構造の転換にチャレンジできるよう、社会的トランポリン(強い社会保障)を張る」ために「借り入れに依存しない」「強固な租税制度(強い財政)」をつくるべきだと説いた。さらに社会保障の現金給付とサービス給付を組み合わせ、職業訓練で人的インフラを強化しつつ、産業構造の転換を実現しながら成長を図る。そうすれば、「強い財政」を起点に「強い社会保障」と「強い経済」の好循環をつくり出すことが可能になる、と語った。強い財政への抜本的税制改革の柱としては、税収調達能力と再分配機能の回復、社会保障の安定財源の確保、経済成長を支える財政、地域主権の確立、などを挙げた。

  とくに強調したのは「消費税と所得税を車の両輪とする租税制度の構築」で、そうすれば消費税だけに頼る場合に比べて増税幅を小さくできる、との見解を示した。また、増税分を政府債務の圧縮に使うことよりも、社会保障の強化と成長促進のための財政支出に回すことが大切であるとし、「世界各国が財政赤字を一斉に減らすのは危うい。『合成の誤謬』というケインズの警告をもう一度かみしめるべきだ」と指摘した。

  将来も見据えた税収の財源と課税バランスとしては適切かもしれませんが、増税反対派の視点・論点は国民=納税者の生活耐久度に重点が置かれています。つまり、前項の共産党の引用で示された国民が蒙る負担実感度、それが「オーバーキル」レベルに達してしまうと、モノが売れない・人が雇えないとなって、消費者世帯や中小企業が存在の基盤さえ失ってしまうのではないか、という危惧・懸念です。特に現在は長期のデフレに加え、未曾有の震災・放射能事故による大損害が重なってしまいました。他のインフレ傾向も伴った好況期ならいざ知らず、消費者心理も経済もどん底のこの時期に杓子定規な方程式そのままにハイ増税、というのは余りにも冷酷非情です。とにかく現在は平時でなく非常時、というのは総理ご自身が日々肌で実感されている筈。優れた内容だからこそ賛同も多いのでしょうが、デフレだけでもヤバイのに震災被害・放射能被害も抱え、未だ原発も収束せず、経済に与える打撃度の算出もできかねる現況下では、消費税増税を含んだ税制改革はひとまず先送りし、国債の発行、累進性の強化・・・と状況を見て段階的にやって行くべきではないかと思います。まさにケインズの「合成の誤謬」理論により、怪しげな官僚の財政規律に追従するよりも、国民の所得・消費の向上に傾注すべき時期です。以上不勉強なド素人の考えでした。

「優しき心」と「起き上がり小法師」(首相官邸)

  パリでのOECD50周年記念行事、ドーヴィル(フランス)でのG8サミット及び各国との首脳会談、ブリュッセル(ベルギー)での日EU定期首脳協議を終えて、帰国しました。サミットは、私にとっては去年のムスコカ(カナダ)に続き2度目の出席でした。首脳陣の顔ぶれも全員同じで、議長のサルコジ大統領は皆をファースト・ネームで呼び、私もリラックスして臨むことができました。

  しかし一方で、去年とは違う緊張もありました。日本に対する注目です。初日のランチ会合でも、「まず、ナオトから」とサルコジ議長が私に冒頭発言を求めるなど、今回のサミットは、震災と原発事故について国際社会に直接伝える重要な場となりました。

  各国首脳全員から、日本へのお見舞いと、冷静に勇気をもって立ちあがっている日本人に対する尊敬の念が口々に語られ、とても力づけられました。これは、日本国民全体、中でも被災者の皆さんに対する伝言ですので、この場で御報告いたします。

  また、今回の外交日程の締めくくりとなった、EU首脳との共同記者会見でも、被災地への思いがこもった言葉をいただきました。EUのファンロンパイ大統領が、コメントの最後に、前夜作られたという俳句を英語で披露されたのです。

   「嵐去り 後に残るは 優しき心」

  壇上で初めてこの句を拝聴した私は、その場で同時通訳をメモし、自分のコメントの締め括りに、もう一度この句を、感謝をこめて今度は日本語で詠ませていただきました。「後に残るは…」まで詠んだところで胸が一杯になり、一瞬、声が詰まってしまいましたが。

  ファンロンパイ大統領は、自作の句集「HAIKU」を出版されているほどの、俳句の愛好家です。去年お会いした時には、私がこの句集を持って行くと、自らサインをして下さいました。今回の首脳協議も「KIZUNA(絆)サミット」と名付けられ、EU側から我が国への、強い連帯感を示していただきました。

  今回、私は上着のポケットに、小さな「起き上がり小法師」をしのばせていました。先日、都内にある福島県産品ショップを訪ねた時に自ら買い求めた、伝統民芸品です。倒れても必ず再び起き上がる小法師の精神は、「日本は必ず復活する」という私から各国首脳へのメッセージに、確かな力を与えてくれました。
(5月29日)

  菅首相も日刊ゲンダイに連載された仲代達矢さんの境地に習い、熟考・充実の市民政治を求め続けてもらいたいものですね。

西山審議官と週刊新潮、「スケベ」はどっち?(J-CAST)

  原発事故のスポークスマン西山英彦審議官(54)に、意外な「不倫疑惑」が発覚した。しかも、身近な人しか分からないような内容まで暴露されているのだ。「最初の食事からいきなり手を握ってきた」「デートの回数は2010年11月が6回、12月が10回ほど」…。

   デート回数やバーでの親密ぶりまで

  普段はマジメな様子だが…「不倫」をスクープした週刊新潮6月23日発売号では、こんな「経産省関係者」の証言内容がつづられている。それも、尾行していたかなどするのでなければ分からないほど、記述が詳細にわたっている。 経産省原子力安全・保安院の西山英彦審議官が、不倫相手とされる20代後半ぐらいの経産省「美人職員」と知り合ったのは、記事によると、1年以上前から。この女性が職場の人間関係の悩みを相談に乗ってもらっているうちに、西山氏と深い男女関係になったのだという。女性は独身だが、西山氏が妻子持ちのため、もしこれが事実なら不倫ということになる。

  記事では、デート回数などのほか、バーなどでの親密ぶりまで書いている。「事情通」によると、西山氏はカウンター席で女性の膝に手を乗せたり、キスを迫ったりしていた。さらに、「事情通」は、カラオケ店では、2人が決まってVIPルームに入っていたことまで明かしているのだ。

  震災後は、6月17日深夜に久々に女性と会った。そして、ホテルのバーでデートし、帰り道で女性にキスをしたとしている。西山氏は、新潮の直撃取材に答えており、2人でカラオケ店に行ったことやキスしたことについてはあいまいな答えをしているものの、深い男女関係については否定した。

   「特にあまりコメントすることはありません」

  週刊誌報道については、6月23日の原子力安全・保安院会見でも質問が出た。これに対し、西山英彦審議官は、事実関係については、「個人的なことでもあるのでコメントしない」としたものの、報道されたことを謝罪した。「私の至らなさ」として、「深く反省し、身を正して参りたい」と述べたのだ。西山氏はまた、この問題で海江田万里経産相から厳重な注意を受けたことを明らかにした。そのうえで、「被災者の方のお気持ちなども踏まえて、事故の収束およびそれに関連する情報提供のために職務に当たりたい」と強調した。

  西山氏は、東大法学部卒のキャリア官僚で、原発の技術的側面に通じているわけではないようだ。しかし、事故後に、別の審議官2人が次々に交代した後に、異例の抜てきを受けた。その忙しさの中で女性と度々会っていたという情報はないが、今後の待遇に影響が出かねないような事態になった。西山氏に直接聞くと、「特にあまりコメントすることはありません」とだけ答えた。さらに質問を続けようとすると、「ちょっと忙しいので、これで失礼します」と言って電話を切ってしまった。
(6月23日)

  詳細はJ-CAST別項の元木さんによる“深読み週刊誌”のコラムも併せてご覧下さい。週刊ポスト他の誌面にも、プロとしての冷静かつ適切な分析評価がなされています。で、「のびたうどん」や「臭くて売れないチーズふりかけ」のような私のブログなんですが・・・まず当然の事として、通常なら官僚擁護に走りがちなマスコミ週刊誌が、東大法卒の出世頭、エリート官僚の醜聞をスッパ抜いた事は大いに評価されるべきです。連日の会見で疲れがたまっていたのかも知れませんね。エリート官僚の西山さんにとって愛人との逢瀬は日常的な普通の事かも知れませんが、奇形植物も生え始めた被災地やフクシマで放射能や瓦礫にまみれ、日々復興生活に明け暮れる人々にとっては怠慢・傲慢・不適格・不謹慎のそしりを免れないでしょう。「俺は努力して東大出たんだ!」彼がそのような高慢で悪い人間で、一般庶民や貧しい人々がすべて善良で性的にも高潔だ、なんて思いません。ただ公務員の給与が不相応に高すぎるから、余計な事に遣ってしまうのです。大幅減俸は必至でしょうね。

  で、ここから天邪鬼理論を展開すると、まず個人的には週刊新潮が女性を差し向けたのかなあと思いました。でも違ったようで、女性の方からタレ込んだようですね。注意したいのは、この女性自身も「経産省官僚」なわけです。原発を推進する経産省自体が、税金で不倫するのが当然という異常な雰囲気に染まっているわけです。ですからこの女性は一方的なセクハラ被害者でなく、被災者・国民に対する背信者の疑いもあるわけです。この女性も処分が適切でしょうね。これでは事故復旧のスピードも上がらないでしょう。

  注意を喚起しておきたいのは、余りイケメンの方ではない西山さんの女性スキャンダルを過剰に煽るのは、小沢さんや宗男さんらが蒙っている冤罪問題のように、「意図的なイメージ操作」を助長する懸念があるということです。イメージがピッタリはまるならなおさら、読者は注意しなければいけません。不謹慎なのは勿論そうですが、彼が特に業務違背をしていたかというと、それはわからないのです。原稿内容や対応への抗議を個人にぶつけても逆にトカゲの尻尾切り、巧妙なガス抜きに利用されてしまいます。もっとマスコミも国民もレベルを上げて、皮相をいじくるのではなく、抜本的な視点・対策、そして戦術を掘り下げなければ、この現状はとても打開できないと思いますね。国家の非常時に責任省庁の官僚が税金で不倫をしていた・・・この点でふたりの厳罰は必至です! 週刊新潮には「生臭剥き出し」とありましたが、「高邁な理念」と「生臭」「邪ま」「ロマンポルノ」との間に完全な線引きをせず、それらを「生命力」に転化して、力強く夢を追うのが密教的生き方ですw

日本が忘れた普天間移転(田中宇)

  日米両政府が進める沖縄米軍の普天間基地の辺野古への移転計画について、5月12日、3人の米上院議員が、財政的・時間的に不可能なのでやめるべきだとする提案書を、米政府(国防総省)に提案した。

  米政府が防衛費を含む財政緊縮に力を入れ、日本政府は大震災と原発事故で巨額の財政負担を強いられる中、米議会から発せられた、金のかかる辺野古移転計画の中止提案は、かなり現実的なものだった。対米従属の象徴たる在日米軍の駐留継続に積極的な官僚主導の日本政府は、辺野古移転の代わりにグアム移転強化を盛り込んで登場した3議員案に対し、表向き「議員提案にすぎない」と軽視したものの、米国が財政削減の一環として米軍の沖縄駐留を縮小することを非常に恐れていたはずだ。

  日本側では、外務省などと連携して対米従属強化を目論んできた前原前外相が5月20日に訪米し、日本の主張を聞いてくれそうなダニエル・イノウエ上院議員(上院で予算案をまとめる歳出委員長)らを通じ、米側に、辺野古移転計画をやめないでほしいと頼んだ。日本政府は「思いやり予算」や、辺野古移転やグアム移転費の一部を日本が負担することで、米軍の日本駐留費の約半分を支払っている。この金で米政府はかなり助かっており、日本は米国に対して贈賄効果を持っている。長年の贈賄をしてくれている日本からの頼みを受け、米オバマ大統領は、5月27日のフランスでのG7サミットの傍らで行われた菅首相との会談で、今後も従前どおり辺野古移転計画を続けることを表明した。日米両政府は、辺野古移転計画を中止すべきだという3議員の提案を正式に拒否する趣旨の談話を発表した。

  5月30日には、米国からイノウエ議員が訪日し、日本政府の閣僚らに、辺野古移転やグアム移転の計画を続ける米側の意志を説明して回った。合わせて、6月21日に日米2プラス2協議(外務・防衛大臣会合)を開き、2014年に設定されていた辺野古移転計画の期限を延期することを決める予定になった。6月13日には、北沢防衛相が沖縄県の仲井真弘多知事を訪問し、21日にワシントンで開く2プラス2協議で、辺野古移転計画が日米の正式な合意として再確認される予定だと伝えた。県外移転を強く希望する沖縄の民意を受け、仲井真知事は辺野古移転に改めて反対したが、すでに日米間で内定した合意の前では、むなしい抵抗だった。

  思いやり予算やグアム移転費負担といった、日本から米国への贈賄の力がものを言い、外務省や前原が画策した米議員提案潰しの作戦は、見事に成功したように見えた。日本のマスコミは、大震災や原発事故のことばかり報じるプロパガンダの流れの中で、従順や軽信を美徳とする風土が(ひょっとすると戦時中以上に)強まっている。本土の日本人の多くは、沖縄に押しつけられたままの基地問題のことなど忘れ、米国の議員たちが日本の自立を促進するかのような提案をしてくれたのに気づかなかった。

  しかし、話はここで終わらなかった。辺野古移転を中止すべきだと提案した3議員はしぶとかった。6月14日、米議会上院で、軍事委員会傘下の即応・管理小委員会が開かれ、国防総省が海兵隊のグアム移転計画などアジアの軍事戦略について、議会に対して十分な説明をしない限り、辺野古移転やグアムでの基地増設、在韓米軍の基地移設などにかかる防衛費を議会で可決しないことを決定した。条項は上院軍事委員会での検討を経て、上院の来年度の防衛予算(国防権限法案。NDAA)に盛り込まれる。

  この条項は、3議員が5月12日の提案書で求めたことに対し、国防総省が何の対応もとらないことへの報復措置として出された。提案書をまとめたジム・ウエッブ上院議員は、6月14日の小委員会の討論で「辺野古移転計画は、巨額の財政を投じる事業なのに、国防総省から満足な説明がない。われわれは、最低限必要な説明を求めているだけだ」という趣旨の発言をしている。

  軍事問題の議会討論は非公開とされることが多いが、この日の討論は、同小委員会として15年ぶりに公開された。日本からの贈賄を受け、話をうやむやにしようとしている米政府(国防総省)のやり方に対し、議員の側は討論を公開し、海兵隊のグアム移転や在韓米軍の引っ越しが財政効率の悪い事業であることを、米国の世論に訴え、対抗しようとしていることがうかがえる。5月に提案書を出した3人の上院議員は、海兵隊のグアム移転を本気で止めようとしている感じだ。米国の上院議員は、日本の国会議員より強い権限と権威を持っている。日本では、この問題がまだ無視されているが、いずれ無視できなくなるだろう。

  5月末には、米政府の会計検査院(GAO)も、海兵隊グアム移転事業について「国防総省は、この事業にかかる総費用をきちんと計算しないまま事業を進めている」として、同事業が非効率だと指摘する報告書を発表している。これは、3上院議員が提案したのと同じことだ。(この事業は、日本が在日米軍の駐留と引き替えに米政府に贈賄する際に使う口実的案件なので、国防総省が費用の計算をわざと曖昧にしているのだろう)。

  国防総省が議会に対し、グアム移転計画とアジアでの今後の軍事戦略について十分な説明を行えば、議会は納得し、辺野古やグアムへの移転費、在韓米軍の移転費を米政府予算に計上するだろう。しかし国防総省は、日韓政府から駐留費の一部負担という賄賂を受け取り続ける目的で、日韓での移転事業を行っている。移転事業は、日韓政府から米軍への贈賄の口実に使われている。移転によって米国の防衛力にプラスになるわけでないので、国防総省は議会が納得するような説明ができない。説明できない限り、議会は移転事業に対して今年度以降の予算をつけず、辺野古移転もグアム移転も進まない状態が続く。

  日本側のマスコミや外務省は、6月21日の日米2プラス2会議を「成功」と報じるだろうが、ここにも疑問がある。7月1日には米国防長官がロバート・ゲーツからレオン・パネッタに交代してしまう。パネッタは予算削減の専門家で、防衛費の削減のために就任するようなものだ。パネッタは先日の議会の公聴会で、普天間問題についての姿勢は就任後に決めると述べて含みを持たせている。日本からの収賄金と、米国の負担とを天秤にかけて、普天間問題に対する姿勢を決めるつもりかもしれない。日本の首相交代の話もあり、不確定な要素が多くなっている。

  グアム島では、沖縄から多人数の海兵隊が引っ越してくることへの反対や懸念が強まっている。グアムの人口は16万人しかおらず、1万人以上の海兵隊とその家族が引っ越してくると、島の生活インフラに支障が出るおそれがある。海兵隊の流入を嫌う島民の間では、1980年代以来影を潜めていた「米国からの独立」の話が再燃し、グアム知事(Edward Calvo)が、この件で住民投票をやりたいと提唱している。

  グアムは1898年の米西戦争で米国がスペインから奪って以来、島民が大統領選挙の投票権などを持たず、植民地的、2級市民的な自治領の立場に置かれている。グアム島民は以前から折に触れて、正式な米国民になるか、それとも米国からの独立や自治を強めるかという政治運動を展開してきた。だが、そのたびに米連邦政府は島民に米軍関係の仕事を大量発注し、古くからいるチャモロ族を中心に多くの島民が、ほとんど仕事をしなくても給料がもらえる公務員の職を与えられた。多くの島民が現状からの変更を望まなくなり、島民の地位改定の政治運動はしぼんできた。

  グアム知事が、米国からの独立を選択肢に入れた住民投票を提唱するのは、沖縄からの海兵隊移転にともなうグアムの負担増について、できるだけ大きく連邦政府に売り込み、インフラ事業など財政的な対価を連邦から得ようとする政治策略にも見える。だが、非効率なグアム移転計画の推進を阻止する条項を含んだ財政法が議会で通り、移転計画が途中で止まったままになると、連邦からグアムに落ちる財政資金も止まってしまう。日本では、米議会がグアム移転を阻止しようとしていることについて、まだほとんど報じられていないが、グアムの人々はすでに懸念を強めている。

  沖縄に駐留する海兵隊のグアム移転や辺野古の基地建設が進まなくても、日本政府は大して困らない。日本政府を主導する官僚機構の目的は、対米従属の国是を続けるため、沖縄駐留米軍にできるだけ長くいてもらうことだ。グアム移転事業は日本政府にとって、移転費の一部負担を口実に米国に贈賄し、在日米軍を引き留めるのが目的だ。海兵隊が沖縄からグアムに移転すること自体は、日本政府の望むことでない(米軍が、軍事再編の一環としてグアム移転を希望している)。

  だから、米議会が今回の条項でグアム移転事業を阻止しても、短期的に見ると、日本政府は困らない。だが長期的には、海兵隊を沖縄に置く必要がないことが米側の議会と国防総省の間で再確認され、グアムがダメなら米本土(ハワイや加州)に海兵隊を移せばよいという話になるだろう。日本政府の説明では、グアム移転後も沖縄に海兵隊が残ることになっているが、それは実は「幽霊人数」であり、グアム移転の本質は、沖縄駐留のすべての海兵隊員がいなくなることだ。日本政府は、幽霊人数を本物の海兵隊とみなして米軍への駐留費負担を続け、海兵隊以外の在日米軍を引き留める贈賄を継続するつもりなのだろう。

  海兵隊は機動部隊なので、ハワイや加州といった後方に拠点が置いてもかまわない。沖縄やグアムへの常駐は大して重要でない。5月の3議員の提案は、グアムの負担を軽減するため、沖縄海兵隊の半分以上をハワイや加州に移転することが柱だった。海兵隊が沖縄に駐留する必要がないことが顕在化すると、在日米軍を引き留めておきたい日本政府の戦略が危うくなる。
(6月17日)

  この問題は日米関係というよりも、国内世論+政府VS外務省+前原・石破ら対米追従重視の政治家の問題です。ですからまず政府は公務員改革で外務官僚を政治主導してきちんと政府の方針に従わせる。その上で日米両政府と両軍、沖縄その他現地との交渉を積み重ねていくべきでしょう。原発も米軍基地も経緯はどうあれ、結局は政治家と現地が利権と引き換えに自ら招聘したことになるのです。

三橋貴明「財務省と内閣府」(クルーク)

  最近の内閣府は、財務省の増税路線をサポートする指標や資料を出してくることが実に多い。調べてみると、どうやら内閣府の中に財務省からの出向組が鎮座しており、彼らが「増税やむなし」あるいは「公共事業、意味なし」といった印象を与える指標を、数字をこねくり回しながら作成しているとのことである。

  IMFやOECDへの財務省からの出向者が「日本は消費税増税が必要だ」などと発言し、それが日本の国内マスコミにより、「IMF、日本は中期的に消費税20%が必要と見解」などと、いい加減な記事に仕立て上げられるのと、構造的には全く同じということだ。

  内閣不信任案の騒ぎを経て、ようやく東日本大震災からの復興に向けた基本理念などを盛り込んだ復興基本法案が、国会で審議が始まりそうである。復興基本法案は、自民党と公明党が提出したものを丸呑みする形で審議が進んでいるが、財源については「復興債」すなわち国債が中心である。

  本復興基本法は、そもそも今年の4月中には通しておかなければならなかった法案である。関東大震災の際には、震災発生からわずか四週間後には帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により帝都復興計画が始まった。それに対し、東日本大震災の場合は、震災から三ヶ月が過ぎようとしているにも関わらず、未だに復興基本法や第二次補正予算(復興予算)が国会を通過していない。被災者の気持ちを思えば、この民主党政権による遅延行為は、怠慢というよりは犯罪と呼ぶべきだと思う。

  菅直人首相率いる民主党政権が、なぜ復興基本法の審議を始めようとしなかったのか。あるいは、一時は復興基本法や二次補正をほったらかしにしたまま、国会を閉じようといていたのだろうか。なぜ、ここまで菅政権は、復興基本法や復興予算の早期審議を嫌がるのだろうか。

  理由は極めて簡単である。現時点で復興基本法を通し、復興予算を執行に移す場合、財源は国債以外には考えられないためである。そうなると、財務省が「震災を活用して」実現しようとした、復興増税という消費税アップ構想が水泡に帰してしまう。

  現時点の菅政権は、まさに財務省の言うがままに、増税路線を邁進しようとしている。復興増税を実現するには、財源が復興債(国債発行)となっている自民党、公明党の復興基本法は受け入れられない。だからと言って、そう簡単に復興増税などという過激な手段が、国会を通過するはずもない。

  というわけで、菅政権は復興増税実現のために、復興基本法や二次補正の審議を先送りにし、挙句の果てに通常国会を閉じてしまおうとしたわけである。常識的に考えて、現在の日本は普通に通年国会にするべきだと思うのだが、現在の民主党執行部には常識が通用しない。

  結果、さすがに呆れ返った野党が不信任案を提出し、与党の一部の議員も同調しようとしたのが、今回の騒ぎの顛末である。退陣詐欺という「ペテン行為(by 鳩山元首相)」により、菅政権の不信任は回避されたが、いずれにせよ菅直人首相は早期に退陣しないわけにはいかないだろう。あそこまで信を裏切ってしまうと、与党議員といえどもついていけない。

  また、今回の不信任案騒動により、曲がりなりにも復興基本法の審議が始まった。二次補正も近々国会審議を通るであろうし、国会自体も通年で開催されることになる。被災地のためにも、結果的には野党の不信任案提出はプラスに作用するだろう。

  自民党、公明党が提出している復興期本法案が国会を通過すれば、復興の財源は普通に国債発行になる。すなわち、復興増税という財務省の野望が、打ち砕かれることになるわけだ。

  とはいえ、そんなことで増税路線を諦めようとしないのが、財務省の本質である。

  予想はしていたのだが、復興増税がどうやら無理らしいと明らかになった途端に、今度は「税と社会保障の一体改革による消費税アップ」という、震災前までの路線が復活してきた。結局のところ、財務省は省益である増税が実現できれば、理屈付けは何でも良いのである。復興増税がダメという話になれば、単純にこれまでの「税と社会保障の一体改革」路線に戻るだけの話というわけだ。


   5月31日 毎日新聞「消費税:増税まず2~3% 財務省・内閣府報告書『景気後退主因でない』」

  財務省と内閣府は30日、税と社会保障の一体改革に向けた集中検討会議に、消費税の段階的な引き上げを打ち出した報告書を提出した。有識者の研究成果などを踏まえ、消費税増税が経済や課税実務に与える影響をまとめたもので、引き上げ幅は2~3%を想定。97年の増税時の分析をもとに「増税は景気後退の主因ではない」と結論付けるなど、増税の地ならし的な性格が色濃い。政府はこれを参考に税率や増税時期など具体策の検討を進める。

  報告書は、97年4月の消費増税による消費の落ち込みを(国内総生産の0.06%相当の)3000億円程度と分析。景気は同年5月を境に後退局面に入るが、7月のアジア通貨危機や11月の山一証券破綻などの金融危機の影響が大きいと指摘した。

  ただ、増税による消費の落ち込みが「経済にマイナスの影響を与えたとの見方がある」点は認識。このため増税のタイミングについては「景気が成熟する前、勢いのある段階が望ましい」とした上で、大幅増税は景気への影響が懸念され、小刻みだと事業者の実務負担が大きい点を指摘。英独で近年、2.5~3%引き上げた事例を紹介した。

  さらに「(増税を)先送りするほど大きな引き上げが必要になり、経済ショックも大きくなる」とし、早期実施の必要性を説いた。08年秋のリーマン・ショック後の需要不足下でも多くの国が増税に踏み切ったとし、デフレ脱却前の引き上げも可能との見方を示した。(後略)』

  色々と突っ込みどころがある記事であるが、まずは内閣府の報告書のソースをご紹介しておこう。

  【社会保障・税一体改革の論点に関する研究報告書】 

 ちなみに、上記報告書の中で、内閣府は、「このように、今から振り返ると、97年度の経済は前年度から後退したのであるが、97年には4月の消費税率引上げ後、アジア通貨危機と金融危機という2つのショックが日本経済を襲った。7 月にはタイ・バーツ危機に端を発してアジア通貨危機が起こった。危機はその後、フィリピン、インドネシア、マレーシア、韓国などへ伝播し、これを受けて7-9月期の輸出数量(SNAベース)は2.2%(季調済前期比)減少した)。さらに、11月には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が経営破たんし、金融危機が家計・企業のマインドを悪化させ、経済の動きにも大きな影響を及ぼした」と、記事中にもあるように、1997年後半以降の急激な景気の落ち込みは、「消費税をアップしたためではない!」と、問題のすり替えを行っているわけである。

  別に、誰も消費税のアップのみが98年以降のデフレ深刻化の原因である、などとは言っていない。デフレ環境下で消費税をアップし、さらに公共投資削減などの緊縮財政を強行し、そこにアジア通貨危機や国内の金融危機が勃発した結果、日本のデフレが深刻化していったと言っているだけだ。少なくとも、97年の消費税アップが、翌年以降のデフレ深刻化の「一因」であることは、間違いのない事実なのである。

  内閣府の報告書では、さらに、「このように短期間に複数の大きなショックが生じたために、5月以降の景気後退の動きに対して、個別の要因がどれだけ寄与しているかを求めることはきわめて困難である。実際、消費税率が1997年の日本経済に与える影響については見方が分かれている」と、消費税増税と98年の極端な景気悪化の関連性についてまとめている。確かに、97年の消費税アップが翌年の景気後退に「どの程度の割合の影響」があったかについては、意見が分かれるところであろう。

  とはいえ、問題の本質は、「デフレ下の増税は、デフレを深刻化させる」という話であって、97年の消費税アップに「何割の責任があるか」という話ではない。そもそも、需要が収縮しているデフレ下で、さらに民間支出を絞り込むこと確実な消費税アップを提言している資料で、「消費税アップが景気悪化の全ての原因ではない」などと言われても困るわけだ。

  消費税アップを主張する人は、「デフレ下で消費税をアップすると、経済成長を促進し、日本経済がデフレを脱却する」というロジックを示さなければならない。もちろん、さすがの屁理屈大好き財務省や内閣府といえども、これほど無茶な主張を筋道立てて主張することはできない。また、毎日新聞の記事や内閣府の報告書にある、「(97年の)景気は同年5月を境に後退局面に入るが、7月のアジア通貨危機や11月の山一証券破綻などの金融危機の影響が大きい」も、これまた眉唾物だ。何しろ、消費税アップやアジア通貨危機が発生した97年の日本の輸出総額は、前年と比較して増大している。96年と比較し、アジア通貨危機が起きた97年の輸出は、何と5000億円も増えてしまったのである。どう考えても、少なくとも98年以降のデフレ深刻化は、アジア通貨危機とは無関係であろう。

  また、97年から翌年(98年)にかけ、アジア通貨危機の最中とはいえども、日本の輸出はわずかに1兆円減っただけであった。しかも「輸入」の方がさらに激減したため、純輸出は却って増えてしまった。本連載で繰り返し解説してきたが、GDPにカウントされる貿易項目は、輸出でも輸入でもなく、純輸出の金額である。

  98年の輸入は、何しろ5兆円近くも減少している。これは「日本の内部要因により、国内景気が悪化し、結果、外国からの輸入が激減。輸出は増えなかったにも関わらず、純輸出が増えた」と解釈するべきであろう。97年から翌年にかけ、日本の国内景気を悪化させた「内部要因」とは、果たして何であろうか? 消費税増税、社会保障費アップ、そして公共投資削減という緊縮財政以外にあるというのであれば、是非とも教えて欲しいものだ。

  消費税の増税効果のみならず、内閣府の指標には色々とおかしな点が多い。財務省からの出向官僚が書いているのであれば、思わず納得してしまうのだが、公共投資の乗数効果を極端に低く見積もっているのである。何ゆえに内閣府のシミュレーションのみ、公共投資5兆円の乗数効果が最終的に1を切ってしまうのだろうか。理由は簡単。内閣府が公共投資の限界消費性向を、0.33という極端に低い数値に設定しているためである。すなわち、公共投資として政府が支出した場合、その三割強しか消費に回らないと仮定しているわけだ。

  極端に低い消費性向でシミュレーションしている理由を、内閣府は「消費や投資で支払われた資金の多くが返済金に充てられること」などと主張している。しかし、現実の世界で公共投資として政府が支出したお金のうち、七割近くが借入金返済や貯金に回ってしまうなど、考えられるだろうか。しかも、内閣府は最近、公共投資の消費性向をいきなり引き下げた。

  すなわち、財務省からの出向官僚が、公共投資の効果を低く見せるために消費性向を「低い数値に改訂した」としか考えられないのである。現在の中国は、インフレ率を低く見せるために、最も値上がりしている食料品がCPI(消費者物価指数)に占める割合を引き下げた。似たようなことを、内閣府は実施しているというわけである。全ては、増税という財務省の省益を実現するためである。

  昨今の日本は、中国共産党を笑える状況ではなくなってきた。財務省や内閣府(の財務官僚)のプロパガンダに対抗するためには、日本国民が本連載で解説してきたような情報で武装するしかない。難儀な話と思うかも知れないが、他に方法はないのである。
(6月7~9日)

  民主党は小沢=仙谷が「増税なきデフレ脱却、公務員改革と国債発行による財源確保」で強力タッグを組んで政策協調し、挙党一致内閣を組みなおすべき。総理は枝野でも小沢でも亀井でもよい。ただ疫病神=前原だけはダメ。脱原発・増税阻止・小沢復権=挙党一致で改革深化を掲げれば選挙にも勝てる筈。小沢さんも勇ましげな新党分裂じゃなくって反小沢の増税派を懐柔して、小沢グループに取り込んでほしいのですが・・・その“剛碗”に大いに期待します。

何が何でも「消費税増税」まずありきの詭弁・暴論(しんぶん赤旗)

  政府の「社会保障改革に関する集中検討会議」に5月30日提出された内閣府の調査報告書は、消費税が持つ逆進性や景気への悪影響を否定し、消費税率の引き上げを「段階的に行うことが適切」と明記しました。“先に消費税増税ありき”の暴論を見てみます。

 「そもそも消費税の逆進性自体それほど大きなものではない」。報告書はこう断言。消費税による税負担が「不公平ではない」と主張しています。消費税は、低所得者ほど負担が重くなる逆進性を持ちます。高所得者ほど収入のうち、消費のほかに貯蓄や投資に回す分が多くなるためです。報告書が逆進性を否定する根拠とするのは、“消費税は生涯所得に対する比例税”という見方。つまり、年齢が若いうちは、高所得者ほど収入を貯蓄に回す分が多く、同じ年齢の低所得者と比べて収入に対する消費の割合に逆進性があるものの、年をとるにつれて多くの人が貯蓄を取り崩して収入以上に消費するため、“生涯を通して見れば逆進性はない”というものです。これは、一生を通してため込んだ貯蓄をすべて消費し尽くすという架空の前提に立ったものにすぎません。

  実際は、年をとって貯蓄を取り崩して消費するといっても、収入に対する消費の割合は、若い時の逆進性を帳消しにするほどの効果はありません。やはり消費税は生涯を通しても逆進性をもちます。かつて閣僚は報告書は、消費税増税が「景気後退の『主因』であったとは考えるのは困難」と結論付けました。1997年4月に消費税率が3%から5%へ引き上げられました。当時、医療改悪や特別減税の廃止も含め、国民に押し付けられた負担増は約9兆円。かつてない負担増がその後の景気後退(図)を招いたというのが世間の定説です。報告書は真っ向からこれを否定します。

  9兆円の負担増については、これを押し付けた橋本龍太郎首相(当時)自身、負担増が「不況の原因の一つになっている」(2001年4月12日、自民党総裁選の共同記者会見)と認めていました。小渕内閣(当時)の経済企画庁長官だった堺屋太一氏も、消費税増税が「失政だと思っている」(98年8月18日の衆院予算委員会での答弁)と語っていました。竹中平蔵経済財政担当相(当時)は04年12月8日の経済財政諮問会議で、「単年度でGDP比0.5%ぐらい、2.5兆円程度の負担増は甘受すべきだと思うが、GDP比1%、5兆円に達するような負担増は注意しなければいけない。オーバーキル(過剰攻撃)の可能性がある」と提言しています。

  定率減税半減と年金保険料の引き上げなどで単年度約2.5兆円の負担増を国民に押し付けた竹中氏ですら、それを超える負担増を「オーバーキル」だと認めていました。つまり、9兆円の負担増は日本経済に深刻な悪影響を与えていたことは確かです。財務省が描く段階的な消費税増税は、「オーバーキル」が繰り返されるということです。

  消費税増税はなによりも、被災地の復旧・復興に悪影響を与え、水を差します。所得がなくても課せられる消費税は、仕事や生業を奪われ、収入を得るのがままならない被災者にすでに重くのしかかっています。逆進性をもつ消費税の増税によって、被災者にはいっそうの痛みが押し付けられることになります。消費税は被災地だけ軽減・免除するということが、困難な税制です。財務省が描くのは、15年までに税率10%とする構想です。復興が進み被災者が仮設住宅を出て新たな自宅を建築しようとする、その建築費用にまで増税された消費税が課せられることになりかねません。
(6月1日)


田中康夫:「デフレ増税」という愚昧(日刊ゲンダイ)

  畏兄・野口悠紀雄氏の卓見を再録するまでもなく、「増税で経済成長は、語るに落ちた愚論」なのです。古今東西、増税で経済成長を成し遂げた国家は存在しない、と冷徹に認識すべきです。と申し上げるや、「菅から眠」を貪っていた副総理時代の冬眠から目覚めるや、「官から民」ならぬ「菅から官」へと豹変した“啓蟄”の君子は、口角泡を飛ばして、以下の如く反論されるかも知れません。

  いいですか、既に欧州では財政再建の為に増税が具体化しているんです。だから、私が申し上げている「強い経済、強い財政、強い社会保障」は、サミットでも各国首脳から評価されたんじゃないですか。こうした経緯をきちんと踏まえて、議論して下さい、と。

  あのね、菅さん、前提条件が日本とは違うのですよ。“第2のギリシャ化”を防げ、と唱和する欧州各国は、2年前の「リーマン・ショック」に際し、勇猛果敢に経済対策を実施し、デフレならぬインフレ基調なのです。だからこそ、物価上昇分を社会保障へと“誘導”すべく、増税が議論となっているのです。

  日本は「先進国」で唯一、デフレから脱していません。こうした状態で、国民所得の1.5倍以上にも達する労働貴族な地方公務員の給与に切り込みもせぬまま、安易に増税へと逃げ込んだなら、消費は更に冷え込み、深刻なデフレ・スパイラルに陥ります。本会議の代表質問でも提言した様に、仮に全国350万人の公務員給与を10%削減するだけでも2.5兆円、消費税1%分の「財源」が生まれるのです。

  が、「地方公務員の給与をどうこう言うのは、地方分権の考え方として問題」と「菅から官」の惹句に“相応しき”驚愕の答弁を行った彼は、他方で、善男善女の反応が芳しくないと知るや、「議論を呼び掛ける所までが私の提案だ」と逃げ足の早い奇兵隊発言を打ち、複数税率や低所得層への還付制度も検討、と甘言を弄する迷走です。

  おいおい、複数税率や還付制度の導入とは即ち税制の複雑化。役人組織の人員と人件費の肥大化をもたらします。「フェア・オープン・シンプル=公正・透明・簡素な徴税」とは対極に位置する話じゃありませんか。財政再建と経済成長は二律背反に非ず。無論、仰有る通りです。が、その前の哲学と、その先の戦略が、凡そ異なる“奇兵隊”内閣なのです。
(2010年6月30日)

  今後は「増税よりもデフレ脱出、財源捻出は公務員改革で」を合言葉にするべきです。原発問題も抱え込んじゃったんですけどね。

古賀茂明の提言~④東電=利権支配の打破

   電力会社の資金調達コストは上がって当然~それによる消費者負担増は経済合理的

 上記のとおり、原発事故のリスクを抱えた電力会社の資金調達コストが上がるだろうという予想は正しい。しかし、それは、市場のリスク評価が本来あるべき姿になるだけのことであって、それによって、原発事業のコストが上がることはむしろ好ましいことであろう。

 原発をこのまま運転しますという企業の金利が上がることによって、真の原発のコストがわかることになる。安全性について市場に理解してもらえれば金利は下がるかもしれないし、あるいは、金利が禁止的な高水準になれば、原発の運転は止めなければならないかもしれない。(それでも原発を推進すべきということであれば、いきなり国営原発とする必要はないとしても、何らかの政府の関与が必要になる。)

 原発を保有していない沖縄電力の金利が相対的に低くなれば沖縄はそれだけ電力コストを相対的に低く保つことができ、企業の立地競争上優位に立てることになる。

 様々な形で原発のリスクを市場が織り込むことによって、電力料金が上がっても、それは受け入れなければならない。

 何故、経団連が東電の責任を免除せよと要請しているのか。電力コストの上昇を避けたいというのも本音の一つだろう。電力料金が上がれば日本から出て行くぞという脅しもあるかもしれないが、こんなどさくさに紛れて、日本を捨てる口実に今回の事故を利用しようとしていると見ることもできる。もちろん、冒頭に述べた、東電免責論には一定の根拠があることは否定できないが、そうした純理論的な思惑で動いていると見るのはナイーブにすぎるのではなかろうか。

   何故事故が起きたのか、対応がうまく行かなかったのか~東電による日本支配の構造

 今回の事故が何故起きたのか、事後対応が何故うまくいかなったのか、という問いに対する答えは、ガバナンスということに尽きるだろう。事後対応に関する政府の混乱については、これからの検証をまたなければならない部分が多いが、根本的な問題は、東電は、日本中で誰よりも圧倒的に強い立場にあったという事実を指摘しなければならない。

 まず、政治家との関係では、

 自民党の政治家は全国の電力会社に古くから世話になっている議員が多い。電力会社は各地域の経済界のリーダーであり、資金面でも選挙活動でもこれを敵に回して選挙に勝つことは極めて困難である。従って、今回の事故後にも、自民党の政治家で具体的に東電の解体論などを唱えているのは河野太郎議員ら極めて少数の議員しかいない。今後も電力会社の世話になりたいと考えている議員が圧倒的に多いので、東電に厳しい政策はなかなか通りにくい。逆に東電を守ろうとする露骨な動きも表面化している。

 民主党も電力会社の関連労働組合である電力総連の影響を強く受ける。電力総連は連合の中でも最有力組織の一つで、現在内閣特別顧問(「特別」とつけたところに民主党が如何に組合に気を使っているかわかる)の職にある笹森清氏が東電出身で電力総連会長から連合会長に上り詰めた人物であることを想い起こす人も多いだろう。

 菅政権は今のところ、東電に厳しい姿勢を取っているが、最後は国が責任をとるというような言動が目立つようになってきており、今後どこまで労組から独立した路線をとれるかは厳しく監視して行かなければならない。

 こうした状況を変えて、東電の影響力を排除した形で政治的判断をできるようにするために、直ちに東電及び東電労組による政治家への献金、便宜供与、ロビー活動の禁止などの措置をとる。特に、個人献金の形で事実上の企業献金が行われる可能性が高いので、東電再生期間中は役員・従業員にも献金の自粛を求める必要がある。

 次に、省庁との関係である。政府の中では内閣府の原子力委員会と経済産業省の資源エネルギー庁が原発推進機関、内閣府の原子力安全委員会と経産省の原子力・安全・保安院が安全規制実施機関であるが、いずれも事実上電力会社、東電の支配下にあると言ってよい。

 原子力委員会と経産省資源エネルギー庁はそもそも原子力発電の推進派である。原子力安全委員会は原子力委員会と同じ内閣府の下にあり、また、原子力安全保安院は資源エネルギー庁の特別の機関という位置付けだが、実質は言わば子会社である。しかも、これらの組織に関与している多くの学者がいわゆる御用学者である。つまり、推進と安全チェックの組織が同居していて、チェック機能が正しく働く仕組みになっていない。

 いずれの組織も巨額の原子力関連予算で潤っており、業界との関係も深い。つい最近も経産省から過去50年で68人が電力会社に天下っていたことが報道されていた。資源エネルギー庁長官が退官4ヵ月で東電に天下りしたことに非難が集中し、最近東電顧問の職を辞した(なお、他の電力会社のほとんどに今でも天下り役員等がいる)。東電に足を向けて寝られないという状態である。

 さらに、東電は強大な政治力を背景に、経産省の人事にまで影響力を行使すると信じられており、現に電力自由化を強硬に唱えた官僚は左遷されたり早期退職を余儀なくされたりしていると言われている。こうした環境下では、本気で東電と戦うことは、まさに職を賭すということになるため、今日では、そうした声は殆どなくなってしまったのが実情である。

 三番目に経済界も東電に支配されている。東電が電力を供給しているからではない。東電が巨大な調達を行うからである。

 鉄、化学、電気、石油はもちろん自動車産業も東電には大量の製品を納入している。

 銀行も東電は最優良顧客だった。証券会社も東電債は最大の社債銘柄である。ある証券会社の最近のレポートでは補償金の支払いのスキームに関して、東電を守るための提灯提案をしている。プロを装いながら自分達の商売を守ろうとする詐欺行為だ。

 商社ももちろん東電には頭が上がらない。
 これらの大企業の集まりである経団連が必死に東電を擁護しているのは利益最優先の私企業集団としては当然だが、それを公益のために主張しているかのように見せていることに偽善を感じる人は多いだろう。

 この他、事業所付近の飲食業はじめ各種サービス業なども東電のおかげで潤っていることは周知の事実だ。

 東電はコストに一定割合(公正報酬率などと呼んでいるが公正と言えるのか甚だ疑問)をかけて利潤を上乗せできる。コストを増やした方が利益も増えるのだ。だから、厳しいコストカットなど行うインセンティブはない。従って、単に調達額が大きいだけでなく、納入業者から見れば、他にないおいしい商売が保証されることになる。

 従って、経済界で東電に逆らう者はいない。経団連が東電の免責を主張しているのも東電のご機嫌取りをしているだけでなく、東電の経営が厳しくなれば、コストカットの影響がおいしい商売に及んでくることを本能的に恐れていると見ることもできる。

 マスコミも東電に支配されている。東電は膨大な広報予算の配分によって、原発批判等はすぐに抑え込む力がある。

 現に、これほどまでに世間の批判を浴びている今日でもまだ東電の顔色を気遣うテレビ局のプロデューサーや新聞の論説委員も多い(テレ朝が私を出演させて東電の破たん処理プランを紹介したのは極めて勇気のある行動だ)。

 東電の会長・社長が会見に殆ど姿を現さないのに、一方で全く心のこもっていないお詫び広告を出すのは、広報予算を使ったテレビ局への圧力だと受け止められている。

 また、事故当時、勝俣会長がマスコミ関係者と中国旅行に行っていたことが暴露されたが、そうした不透明な癒着も広がっている。

 学者も電力会社からの研究資金や情報提供などを含めた様々な便宜供与を受けること等により影響下にあると言われている。原子力安全委員会メンバーの多くが御用学者と言われているし、経産省の各種審議会・研究会などでも電力自由化や原発の安全基準などの議論をしていると、当初改革派が優勢でも、途中から殆どの学者が寝返って、最後は多くの場合、一人か二人になって改革派が孤立するというのが常であった。

 その裏には、東電をはじめとしたすさまじい根回しがあったと言われている(「東大の学者は電力会社に買収されている」というノーベル賞学者の発言もあるほど)。

 文脈がやや違うが、今日最もその独立性を問われているのが、新日本監査法人の東電担当チームだ。現在のような状況では到底監査証明は出せないだろう。仮に政府が何らかの対策について閣議決定したとしても、それがすんなり国会で通る可能性は極めて低く、議論すれば破たん処理となる可能性の方がはるかに高い。従って、閣議決定がなされるかどうかは監査に対してあまり大きな意味は持たないはずである。

 新日本監査法人は、りそなやJALで、政府の影響を受けたという風評でその信用に大きな傷がついた。特にJALは中間決算時点で破たん必至と見られていたのに監査証明を出し、その直後に破たんというとんでもない失態を演じたのは記憶に新しい。

 政府や東電、銀行の圧力に屈していい加減な監査でお茶を濁すようなことになれば今度こそ市場の信認を失うであろう。新日本監査法人は東電及び銀行・経産省から強大な圧力を受けることが予想されるが、むしろ新日本が彼らに引導を渡し、今回の東電処理を正しい道筋に導くことを強く期待したい。

   「政府の責任=国民負担」の前に経産省と内閣府の責任を問え~東電をスケープゴートにする官僚たち、まず資産売却を

 現在燃え盛っている東電バッシングは、国民感情としては良く理解できるが、これだけに関心が集まると、経産省等の政府の責任が不明確なまま東電の処理策が決まってしまう可能性がある。政府の責任を言うとすぐに国民負担という話になるが、その前に経産省等の責任を明らかにする必要がある。東電の経営者の責任を問うのと同じである。

 今回の原発事故の直接の原因である地震や津波に対する安全対策の基準が甘すぎたことは明らかだ。だから政府は東電に責任があると言っているが、東電は政府の基準に従っていた。本来、安全をチェックする責任を負っている政府は、東電の対策が不十分な場合、適切な安全対策の実施を指示したり、不十分なら原発の運転を止めたりする責任があったはずだ。

 とりわけ、貞観大地震などの研究成果に基づき、地震・津波対策の抜本的強化の必要性が叫ばれて以降の原子力安全・保安院、資源エネルギー庁、経済産業省の関連幹部の責任はある意味、東電より大きいとさえ言える。現在の幹部ももちろんだ。彼らが、今、東電の温存策策定に必死になっているが、事故の責任者に将来の対策の立案を任せていては、自分達の利権擁護と保身のために対策が歪んでしまう。彼らをまず対策立案チームからはずすことが正しい対策立案への近道になる。

 これらの責任のある幹部には退任と退職金返上を要請すべきだ。過去の幹部にも補償金のための退職金返納を求めるべきだ。

 先日、東電に天下りした前資源エネルギー庁長官が顧問職を退任したが、他の電力会社の殆どに今も天下りの経産省OBがいる。彼らにも自主的退任を求めるべきだろう。彼ら個人に必ずしも直接の責任がある訳ではないが、被災者の感情を考えただけでも天下り癒着の構造を残すことは許されないだろう。

 また、他の原発立地地域の住民から見れば天下りで癒着していれば国が本当に安全を確保してくれるのか極めて不安になる。全電力会社への天下り禁止と天下り役職員等の退任を求めるべきだ。

 実は、天下りによって規制対象企業との癒着で十分な安全規制が実施できなくなるという不安はかねてから指摘されていた。今、それが最悪の形で証明された訳だ。これは、何も経産省に限ったことではない。今こそ、全省庁において、最低限、規制対象企業への天下りは全面的になくすように内閣として自粛要請すべきだ。

 次に、政府の責任という場合、個人の責任追及だけでなく、東電が行うのと同様に意味のない資産を売却して補償財源を確保するということが必要だ。手っ取り早いのは、まず、JT株(現在の株価でも三兆円)、NTT株の売却、さらに、日本郵政株も本来の方針通り早期に売却すればさらに数兆円が入るだろう。

 公務員幹部宿舎、印刷局その他の土地、独法の保有する株、債権など天下りや各種の利権を温存するために保有している資産は、国民にとっては百害あって一利なしであるから、直ちに売却する。これによって料金値上げや増税は必要なくなるか、かなりその規模を圧縮できることになる。

 なお、核燃料サイクル推進を前提とした積立金なども取り崩しを認める。他の電力会社にも積み立て義務を解除し、免税されていた分の課税を行って補償金財源に充てることも必要だ。

   すぐに簡単にできること~広告禁止と研究資金源・便宜供与の公開

 東電の広報は原則禁止措置をとればよい。当面は政府が要請する。東電は従うであろう。これによって、マスコミへの不当な影響力を排除することができる。また、これまでに行ったマスコミに対する接待や便宜供与などは全て個人名を含めて公表させることが重要だ。管財人や経営監視委員が指名されたのちは、彼らがその実効を確保する。

 本当にお詫びしたいのだということであれば、原発事故が収束するまでは、お詫び広告の代わりに毎日社長が土下座会見をすることにしてはどうか。

 東電による学者等への資金拠出・原稿料・講演料などの支払いも全面公開を要請する。これにより御用学者があぶり出され、彼らによる東電寄り「専門家」情報の影響力を弱めることができる。

   事故調査は政府任せではいけない~国会の下に独立の事故調査委員会を

 政府は5月中旬に事故調査委員会を設置するとしているが、今回は、一省庁の問題ではなく、内閣そのものの責任が問われることになる。そうなると、内閣が作る調査委員会で真に公正な調査が出来るのかという疑問がある。今回は、国会に事故調査委員会を設置し、国会に対して報告することにするべきだ。

 今回の事故の原因、発生後の対応などについて調査・分析し、今後の規制の在り方などについての提言を含めた報告を行ってもらう。

 委員には原子力関係者はごく一部とし、危機管理の専門家や経済学者など他分野の専門家も入れるとともに、御用学者を排除しなければならない。また、委員就任後に東電などから様々な働きかけが行われる可能性があるので、そうした接触や便宜供与を禁止することも必要だろう。

 今回、日本の原発危機管理が世界でもかなり遅れていることが判明した。世界の専門家を招へいして国際レベルの調査を行うべきである。

   電力事業の構造問題への対応~発送電分離と発電分割と完全自由化

 今回の事故後の対応によって、実は将来の電力市場のあり方、さらには日本の社会の在り方にまで大きな影響を及ぼす可能性がある。逆に言えば、やり方によっては、今の構造をそのまま温存することになる危険性も十分あるということだ。

 まず、首都圏直下型等の地震発生可能性が高まっていることを前提として、経済機能の首都圏集中を根本的に見直し、10年後に首都圏で供給される電力を現在よりもかなり低めに設定する。大口需要者に対する電力使用制限を常用することなども検討し、経済主体の地方分散を促進する。ただし、国外移転回避のための措置も必要となる。

 同様の趣旨から電源の分散設置のための方策を検討する。

 併せて再生可能エネルギー利用・自家発電などあらゆる分野における規制緩和を集中的に行う。電気事業法はもちろん消防法などを含め関連規制を総合的に見直す。

 これらを実施して行く上で、東京電力が発送電で事実上の完全独占状態となっていることが大きな障害となることは明らかだ。これまでも卸電力や大口需要家への電力小売りの自由化が、東電の巨大な影響力が残っているため実質空文化に近い状況となっている。

 まず、発送電分離を前提とした電力自由化の方向を明確化して乗り越えるべき課題について早急に検討する必要がある。その際、東電の巨大な経済力が政治、経済、社会を支配している状況も併せて根本から正すために、発電部門は分割してその規模を縮小するとともに自由競争下において、通常の企業としてのガバナンスが働く構造を確立することが必要である。今回の事故の原因、事後対応のまずさがガバナンスの欠如を主因としていることは既に広く指摘されているが、その根本原因である、東電による市場の独占と巨大な経済支配力を崩すことが今後の改革の主要テーマとなる。
(5月11日、現代ビジネス、抜粋)

  この調子で創価学会の政教分離・越権行為の監視と処罰・マスコミ支配の打破・解体、分割課税化などの政策も断行できるとよいのですが・・・

古賀茂明の提言~③東電賠償問題(現代ビジネス)

 ・・・一方、東電か政府かという議論は、被災者から見ればどちらでもよく、とにかく早く損害を賠償してくれ、ということになる。この点については、おそらく国民誰もが理解できることだろう。

 であれば、現在の原子力損害賠償法は直ちに改正し、原子力損害については、被災者との関係では、「政府と事業者(東電)の連帯債務」と定めるべきである。つまり、被災者は政府と東電のいずれにも支払いを求められることにするのである。

 東電と政府のどちらに責任があるのか、或いは、どのようにそれを分担するのかは、原子力損害賠償紛争審査委員会の仲介により早期に和解する(原子力賠償法18条)ことにより、その後の東電の処理の前提条件を確定することが望ましい。その際、国会の議決を経ることによりその後政争の具にされて不安定な状況に陥ることを防止することが必要だ。

   東電が払えないなら破綻処理しかない~払えないと言った東電

 東電は補償債務を東電だけで支払うことは難しいとしている。補償債務がいくらになるか決まっていない段階でこう表明するのだからずいぶんいい加減な話だが、民間企業の経営者が、債務の支払いができないというのは企業が破たんした時だけのはずだ。払うべきものが払えないなどと言ったら、その企業と取引する者はいなくなる。払えないと思っても、経営者は最後まで払えると言うのが普通だ。会社更生法の申し立てをする直前まで払えるような顔をしておかなければ取り付け騒ぎになる。

 払うべきものが払えないなら、そのまま取引を続けさせる訳には行かない。取引によって不測の損害を被る者が出てくる可能性が高い。従って、そのような場合は、債権者或いは東電自らが会社更生や民事再生の申し立てをするべきだ(もちろん再生可能だという前提だが)。

 被災者も債権者で数兆円規模の債権を有するから、論理的には今すぐにも会社更生手続きの開始を求めて裁判所に申し立てをしてもよい。経営者が払えないと言っているのだから、早く財産の保全をしてもらわなければならない。ただし、被災者が申し立てを行うことは難しいのが現実だろう。

 もし、仮にこのまま支払い不能の会社が放置されることになるのなら、そうした事態を回避する方策を考えなければならない。原子力損害賠償債務を電力会社が負い、かつその額が相当規模に膨らみ、債務の弁済が困難になる可能性がある場合には、政府が被災者に代わって会社更生の申し立てを行うことができる、という規定を原子力損害賠償法に盛り込むことが必要だ。

 他のオプションとしては、今回の事故に限定して、今すぐ、一定の基準日(例えば6月1日)をもって会社更生手続きの開始決定がなされたのと同様の効果を発生させることも一案だ。そのための特別法を作ればよい。

 政府の対応を急がせるために、今回の事故で被害者の立場に立つ自治体が損害賠償債権者として会社更生法の手続き開始の申し立てを行って、自らの債権及び住民の債権の保全のため、東電の財産の保全を確保することも真剣に検討するべきだろう(ただし、自治体の債権額が申し立ての要件を満たしているかどうかという問題はある)。

   破綻処理の際の負担の順位~何故当たり前の議論が無視されるのか

 次に問題となるのは、破たん処理(再生処理という方が適切だが、従来の世の中の用語法では破たんということになる)の際の負担の順位だ。これは通常の原則に従うべきだ。まず、東電という企業自身の責任が問われるのは言うまでもない。

 経営陣の責任の取り方としては、役員全員の退任、年金の返上、退任までの給与の全額返上(幸いなことに電力会社の役員はこれまでに十分すぎるほど報酬をもらっているので生活に困ることは全くない)、相談役・顧問等の非常勤ポスト全廃などを実施すべきだ。

 従業員の人員削減、給与削減(今は高給だが、一般の企業並みには下げなければならない)、福利厚生の引き下げ(社宅・保養所の廃止を含む)、年金の減額など。ただし、福島の現場で命がけの作業を行っている従業員については当然例外とし、むしろ待遇改善を行うべきである。

 資産の売却。本社、支店、営業所等の不動産売却と移転や子会社の売却など。特に本社を売却し、福島に移転することを実施すべきだろう。当面は福島第一原発事故と被災者への対応が最優先課題となるはずだからである。内幸町に置く必要は全くない。なお、資産を売却するのはキャッシュをねん出する上では意味があるが、含み益を吐き出すことを除けば財務を改善させる効果があるとは限らないことに注意が必要だ。資産の形態が変わるだけだからだ。

 原発を推進することを前提に積み立てられている各種の引当金、積立金についても、原発推進をやめる場合に必要なくなる分については積み立て義務を解除して、弁済原資に充てられるようにすべきだ。核燃料サイクルなど、既に破たんした計画のためにこれ以上積み立てる意味はないだろう。

 次に、株主責任は当然追及しなければならない。すなわち、100%減資が必要だ。

 未だに保有を続けている金融機関もあるようだが、そのような者を守るために株主責任を不問にするという判断は絶対にしてはならない。既に破たんもかなりの程度株価に織り込まれているが、最近は政府の支援が決定されれば大幅な値上がりが見込めるという思惑での買いも増えている。そのような投機家を守る必要も全くない。

 JALの際も、株が紙切れになったらパニックになるという脅しが銀行とJAL・国交省からなされたが、何の問題も起きなかった。株とはそもそもリスク資産であって、市場規律は守らなければならない。

 ここで株主を守るということは、その分を国民または消費者に押し付けるということであって、絶対に許されることではない。

 なお、高齢者の株主が多いという情緒的な風説も流されているが、株を買っている高齢者がそんなに無知で貧しい気の毒な弱者だというステレオタイプな考え方がおかしいし、もし、そんな理屈が通るなら、高齢者が買う株は絶対に破たんさせないという法律でも作るべきだろう。

 前記のように引当義務を解除した核燃料サイクルの引当金等は株主資本に組み入れた上で100%減資する。これにより、財務改善効果は最大8000億円程度改善され(無税となっていた分の課税を行うとこれよりは小さくなるが)全体では3.5兆円程度国民負担が減少することになる。

 負担の順位で次に来るのは債権者である。

 このうち、一般の商取引再建は保護すべきだろう。電力供給は東電が解体される場合でも継続しなければならない事業である。そのための取引に係る債権は守らざるを得ないだろう。

 次に社債だが、電気事業法37条の規定により優先債権となっているので、公租公課等には劣後するが、他の一般債権より優先されることになる。被災者の損害賠償債権も一般の金融債権と同等だと考えられるので、銀行の債権などと同じ順位でカットの対象になる。原子力発電から生じる売り上げが社債の利息にあてられるということを考えると、その原子力事業によって被害を受けた被災者より社債権者の方が優越するというのは如何にも納得しがたいというのが国民感情ではないか。

 しかし、これを乗り越えて、社債権者に法律以上の不利益を課すのはかなりハードルが高いということを認識すべきだろう。もちろん、社債権者の多くが被災者のために一定の協力をしたいと考えることは十分に考えられるので、その道を探る努力をすることは考えられるが、あくまでボランタリーベースだと考えざるを得ない。

 いずれにしても、銀行の無担保債権はカットの対象になることは自明の理である。3月末に融資された債権も同様だ。株価が暴落し、格付けの引き下げが検討されているような状況で融資が実施されたことは驚きだったが、銀行も東電との取引を継続したいというビジネス上の損得勘定で融資した以上そのリスクは当然負わなければならない。

 公益事業の維持のためにボランティアで融資しましたというような言い訳がなされるだろうが、これだけのリスクのある数千億円のボランティア活動を株主の了解なく行ったとしたら間違いなく特別背任だろう。

 経産省の幹部などが東電の経営について保証したというような報道がなされているが、万一そんなことを信じて融資したということが事実ならとんでもないことだ。何か不透明な裏取引があったのかとさえ勘繰りたくなる。そんなことをしたら、やはり経営者は特別背任の疑いさえ出て来る。従って、単なるうわさに過ぎないと考えたい。

 補償額がいくらになるか、まだ不明確だが、東電は当然その試算をしていると思われる。だからこそ、東電だけでは支払えないと言っているのだろう。その場合、単にキャッシュが一時的に不足するという意味なのか、それとも企業価値(ないし資産)を上回る負債を抱えることになるので将来にわたって払えないと言っているのか、二通りの可能性があるが、10兆円にも及ぶと言われる規模を想定すると、後者の可能性の方が高いと考えられる。

 その場合、株主責任を問い、銀行などの金融債権をカットするとしても被災者の補償債権も同様にカットされることになる。どれだけカットするかは、東電の財務及び事業のリストラの結果、将来にわたって東電がどれだけの利益を上げキャッシュを生み出すことができるかによる。そのキャッシュによって返せる金額も変わって来る。事業再生計画によってそれが左右されるのである。

 ただし、いずれにしても10兆円にも上る補償債務を課せば、ある程度その債務はカットせざるを得なくなる可能性は高い。つまり、全ての責任は東電が最後まで一人で負うべきと言うことは感情としてはよくわかるが、通常の市場のルールに従えば、その思いを実現させようとするのはあまり現実的ではないという点は冷静に認識しておかなければならない。

 なお、現在政府内で補償金の支払いスキームを検討しているが、東電の支払い能力をどう査定しているのかが全く不明である。これだけの大規模な会社で子会社も多数保有している企業の価値を算定して行くためには多数のプロを使っても優に半年はかかるのが普通だ。仮に帳簿上の計数のみを使って、東電の支払い能力を査定しているとすれば笑止千万である。その結果を国民負担として押し付けるとすれば、その神経が疑われる。

 国民に負担を強いるのであれば、厳格なデューデリジェンスを経た上で、プロの作る事業再生計画によって将来キャッシュフローを最大化する努力をしたうえで、その額を確定すべきである。それをせずに政治判断で確定しようとするところにもともと無理がある。プロによる事業再生スキームを使うことにより、内閣も安心して国民に対して説明ができるはずだ。このスキームの方が、政権にとっても受け入れやすいはずである。

 今のまま進めば、東電・銀行・官僚が恣意的に作った数字を前提としたスキームで、その責任だけを内閣に押し付けることになる。国会で追及された場合、簡単に立ち往生して命取りになる恐れがある。透明で説得力のある手続きで専門家の知恵に裏打ちされた案を提示するしか解決策はないのではないか。

   カットされた補償債務は消費者、政府・国民が負うしかない~電力事業を憎むな

 上記のとおり、補償額が巨額になった場合は、電力事業の再生を前提にする限り、補償債権もカットの対象とせざるを得ない。そこで、カットされた部分をどうするのかということが次の問題となる。現在の国民の多数意見は、これを泣き寝入りで終わらせることは不当であり、何らかの形で政府が責任を持つべきだと考えていると思われる。

 そもそも政府にも過失責任がある可能性が大であり、その場合は、国家賠償責任ということになる。少なくとも東電が払えない部分は、当然政府が払うべきということになるのである。

 政府が責任を持つということは、国民に負担の分担を強いるということだ。その形として考えられるのが、電気料金か税金である。とりあえず国債という考え方もあるが、最終的には国民負担につながる。

 電気料金で負担を強いるとすると、まず福島原発の恩恵にあずかっていた東京電力管内の需要家に負担させるため、東京電力にのみその分課税(電源開発促進税)してそれを料金に転嫁させるという方法がある。

 次に原発の恩恵にあずかっていた全国の需要家に負担させることが考えられる。沖縄電力は原発を保有していないので、沖縄以外の全国の電力会社に課税(電源開発促進税)してそれを料金に転嫁することにすればよい。
(5月11日、抜粋)

  経産省官僚である古賀さんの具体的な提言は充分傾聴に価しますが、東電の賠償が消費税増税の一理由になることには要チェック、増税は産業や経済・社会に大打撃をもたらしますから他の要素も併せた充分な検討が必要です。400円の週刊現代より無料の現代ビジネスの方が社会に有益? これが一読者の考える講談社の底力・クオリティなのですが・・・ “講談社版SAPIO”として月2回で出版してほしい位です。まあ若手の育成も必要ですよね。

古賀茂明の提言~②政治主導・失敗の理由

古賀 最初に1つ目のテーマの政治主導についてお話しします。みなさんに同意していただけると思うのですが、民主党は政治主導を目指しましたが結局はできませんでした、これまでのところは。「なぜ失敗したのか」を私なりに考えてみました。

 第一に「民主党は政治主導の意味を間違えたんじゃないか」ということです。当たり前のことですが、政治主導というのは「政治家が官僚を使って政策を実現する」ということですね、自民党時代はそれが逆になっていて、官僚が政治家を使って自分たちの利益を守る政策を実現していました。

 それを批判して、民主党は「政治主導を実現する」と言ったのですが、民主党は官僚を使って自分たちの政策を実現しようとするのではなくて、官僚を「自分たちの競争相手だ」ととらえてしまったようです。つまり、官僚と民主党の閣僚が横に並んで競争する、そして「自分たちの方が有能なんだから、官僚を排除して行政を実行しよう」と試みたということだと思います。

 2つ目の問題点は「閣僚に政治主導を実行する能力がなかった」ということだと思います。政治主導をやろうとしたら、閣僚にその能力がなくて、従って閣僚が自分で何かをやろうとしたら大きな混乱が起きたということです。これを自覚した人は結局、官僚に頼る道を選びました。気付かなかったところでは混乱が続きました。

 仙谷由人さんが官房長官になった時、この問題によく気付いていたと私は思っています。そこで彼は大臣たちに対して、「もうちょっと官僚と仲良くしろ」という指示を出しました。そして、政治主導の大事なところは全部自分で仕切ろうと考えたんだと思います。ただ、1人でそんなことをやるのは不可能なので、実際には財務省を中心とした官僚に頼らざるを得ない状況に追い込まれたと思います。

 失敗した理由の3つ目は「有能で信頼できるサポートスタッフがいなかった」ということです。政治家の能力は当然限られますし、1人でできることはそんなに多くないので、いかに自分が信頼できる優秀なスタッフを抱えられるかが重要なポイントになります。しかし、民主党の首相を含めた閣僚は、ほとんどそういうスタッフを持っていませんでした。

 そして4つ目、これを言うと望みがなくなるのですが、「首相や大臣がそもそも何をやりたいのかという目的を持っていなかったのではないか」ということです。

   次のリーダーに求められる条件

 今、菅直人首相の進退が話題になっていますが、次に新しいリーダーが選ばれるとすれば、そのリーダーや内閣に求められる政治主導を実現するための条件は、こうした失敗した理由から自ずと分かってきます。

 第1に「リーダーはビジョンを持っている」ということです。これは最小不幸社会とか平成の維新とか第三の開国とか、そういう抽象的なレベルだけではダメです。例えば、小泉純一郎首相の時には彼のスローガンの中に「民間でできることは民間で」というスローガンがありましたが、それは抽象的なレベルだけではなくて、それを象徴する具体的施策として郵政民営化というものがありました。こういうものがセットになっていないといけないと思います。

 第2に「リーダーの資質が高い」ということです。これをわざわざ言わないといけないところが問題なのですが。最近、1年ごとに首相が代わっていることもあって、首相になる人が十分な時間をかけて選ばれるという過程がなくなっています。特に民主党の場合は自民党と違って、派閥の中でもまれたり、長い時間政権にいる中でいろんな仕事を経験するということがなかったので、次に選ばれる首相を考えた時、「何によってリーダーの資質がテストされたのか」が非常に不安なところがあります。不安だと言っているだけではしょうがないのですが、いずれにしても、「そのリーダーの資質が本当に高いということを示してもらわないといけない」と思います。

 第3に「ビジョンを実現していく具体的で明確な戦略を持っている」ということです。その戦略に基づいて、内閣の閣僚に「実現する方策を考えろ」と指示するので、この戦略がないまま政権について政策を実行しようとすると、今までのような混乱に陥るのではないかと思います。

 第4は「非常に優秀な自分のスタッフを持っている」ということです。信じられないことなのですが、首相になってから「誰を集めようか」と考える人が結構いるんですね。そうではなくて、首相になる人はやりたいことがあるわけですから、それを誰を使ってやるのかという考えを事前に持っていないといけません。
(6月22日、ビジネスメディア誠、抜粋)

古賀茂明の提言~①公務員改革(ビジネスメディア誠)

古賀 次に公務員制度改革の話をさせていただきます。まず、「なぜ公務員改革が必要なのか」ということですが、小泉改革でいろんな改革をやりましたが、今になって分かったことは小泉さんが辞めたら、ほとんどの改革がすごいスピードで逆戻りを始めているということです。

 それはなぜかというと、小泉さんは公務員制度に手を付けなかったからです。官僚は基本的に今ある仕組みを守りながら、その中で自分たちの利益を確保するという行動をとるので、公務員制度に手を付けないままほかの改革をやろうとしても、結局常にその改革を逆戻りさせようとする力が働いてしまうのです。

 では、何をやらないといけないかということですが、公務員制度改革には大きく分けて2つの問題があると思います。1つは公務員バッシングの文脈でよく言われるのですが、「給料を下げろ」「首切りをして人を減らせ」という、コスト削減的な観点での改革です。これももちろん大事なことなのですが、今それよりはるかに重要なことは「官僚が国民のために働くようなインセンティブの構造をもう一度作り直す」ことだと思っています。

 そのために必要なことはいくつかあります。例えば今、公務員は法を犯したり、悪いことをしたりしない限り、ポジションが下がることは絶対ありませんし、給料が下がることもありません。これをやめて、業績を残せなければ下がることがあるという仕組みにしなければいけないと思います。

 もう1つ、今、官僚は1つの文化に染まっています。しかし、新しい政策をやっていくことが官僚に求められているので、そのための新しいアイデアを出せる若手や外部の民間人の登用を可能にするような仕組みを作らなければいけません。そのために私が提唱しているのはJリーグ方式です。すべてのランクごとに順位を付けて、下の1~2割は無条件で降格する、それによってポストが空くので、そこに若手や民間人を登用するという仕組みを提唱しています。

 それから3つ目は、首相(官邸)主導の公務員の幹部人事の実施です。今は各省ごとに大臣が人事を行っているのですが、これだとだいたい官僚の側の圧力に負けて、官僚が作った人事案を実施することになるのですが、そうではなくするために首相が省の利益を超えた判断をして、人事を行うことが大事だと思います。

――官僚は、政治主導の改革を受け入れるつもりはあるのでしょうか。

古賀 官僚は基本的に受け入れるインセンティブはないんですね。ですから、それを受け入れるインセンティブの構造に変えなくてはいけません。それが公務員制度改革です。

 やらないといけないことはたくさんありますが、その中でも官僚の評価の仕組みが今までしっかりしたものがほとんどなかったのです。目標が与えられて、その目標を達成したかどうかによって評価されるのが普通ですが、私自身も経験していますが、そういう明確な評価が行われているという自覚さえないという状況にあります。それを根本的に変えなくてはいけないと思っています。

 それをやるために一番大事なことは、首相がやるべきことをはっきり持っていて、各閣僚ごとに役割分担を決めて、その閣僚が官僚に対して具体的な目標を設定すること、これが非常に大事です。何となくやってくれではなくて、具体的に「いつまでにこういうことをやろう」という目標設定をしっかりした上で、半年~1年ごとに評価していく。目標を達成できれば昇進するし、ダメだったら昇進できないという仕組みにする必要があります。

 民主党が本当に信頼できる有能な官僚を選びたいのであれば、踏み絵になるような政策について目標を与える、例えば「天下りポストをあなたの所管の分野でいつまでに全廃しろ、半減しろ」という目標を与えれば、どのくらいやる気や能力があるか、非常にはっきりと分かると思います。

――日本ではなぜ公務員改革が問題となっているのですか。

古賀 ほかのアジアの国々のことについて私も詳しくは知らないのですが、経済が順調に発展している間は、あまりこの問題は出てこないと思うんですね。日本は今の仕組みで続けていくと、もう成長できないし、成長どころかどんどん下り坂を転がっていく状況になっている。そこから抜け出すためには、今の仕組みを大きく変えなくてはいけない時にきています。

 そして、全体の経済のパイがほとんど大きくならない状況の中で仕組みを変えるということは、多くの場合、いろんなプレイヤーの取り分が減るということが実際に起きるということです。特に官僚というのは今のシステムに依存して自分の利益を守っているので、そのシステムを変えることに非常に強い抵抗を示します。

 これがもし非常に順調に成長している時期であれば、システムを変えてもパイが広がるので、自分の取り分の増え方はほかの人より少ないかもしれないですが、依然として増える、あるいは最低限維持できるので、変革できるということがあります。しかし、今の日本は官僚の利益を維持しながらより良いシステムに変えることが不可能になっていると思うんですね。従って、それを知っている官僚はどうしても改革に抵抗することになるんだと思います。

――官僚と政治家の関係についてどのように考えていますか。また、同僚との関係はいかがですか。

古賀 官僚がある政府の政策を批判することは、普通はあってはいけないことかなと思います。ただ、そういう意味では私はいつでも官僚を辞める心の準備ができています。それは人事当局にもはっきり伝えてあります。私はだいぶ前になりますが、人事当局から「ちょっと待っておいてくれ。ポストを探すから」と言われました。実は私は1回辞めると言っていて、2010年10月で辞めることになっていました。

 しかし、あの仙谷由人さんの恫喝と言われている発言があった時、大畠章宏経産大臣(当時)が私のことを辞めさせないという趣旨のことをおっしゃってしまったので、やめられなくなったというか、経済産業省もそこで辞めてもらっちゃ困るということでいったんそれがキャンセルされて、そのまま今日に至っています。

 私自身の希望はもちろん「引き続き官僚として仕事がしたい」というのが一番です。ただ、仕事がずっと与えられない、要するに「あなたのポストはありませんよ」と言われるのであれば、これはもう辞めるしかないと思っています。「もしかすると、もうすぐそう言われるかもしれない」とは思っています。

 同僚との関係という意味では、もちろん私が批判すると一番影響を受けるのは幹部なので、幹部クラスは恐らく私に対してあまりいい気持ちを持っていないだろうと思いますが、あまり直接言ってきません。「言うと危ない」と思っていますから(笑)。しかし、若手ではかなり私をサポートしている人は多くて、実は昨日の夜も随分遅くまで霞が関の改革を進めたいという若手が集まって、一緒に話をしました。そういう志のある若い官僚もたくさんいるということはお伝えしておきたいと思います。
(6月22日、抜粋、21日日本外国特派員協会)

毎日新聞は創価学会の御用機関紙?(溝口敦)

   経済的な関係を「活字文化」で糊塗する

  毎日新聞の北村正任社長は7月11日、東京・信濃町の聖教新聞社を訪ね、創価学会名誉会長・池田大作氏と会談した。会談の模様は「聖教新聞」7月14日号が2面の左側と3面のほぼ全面を使って、報じている。

 〈新聞が活字文化の黄金柱に!〉
 〈北村社長 新聞は「社会の本当が見える」「最も信頼できる」窓口 多様な「論争と共感の広場」に〉
 〈名誉会長 「福沢諭吉」議論をしない人民は専制政府に都合がよい 民衆を賢明に! それが新聞の使命〉

  何本もの大見出しから窺えるのは、両者の大物風の持ち上げ合いと、高邁を装う警世的な言の数々である。が、裏に透けて見えるのは、経営苦の毎日新聞社長が大スポンサーである創価学会・池田大作氏の膝にすがり付き、倍旧の援助と応援をお願いした姿である。

  ちょうどお中元の時期でもあり、池田氏とすれば、挨拶に伺候した北村氏に「うい奴、近う参れ」といいたくなったにちがいない。「聖教」紙は「当初は10分程度の予定だったが、話が新聞論に及び、約1時間半にわたって意見交換した」と記している。その「意見交換」を紙面化したのは、依然、池田氏にとって全国紙の社長は利用価値があるということだろう。

  今さら毎日新聞と創価学会の密接な関係について、ジャーナリズムにあってはならないことと嘆いても始まらない。恥ずかし気もなく創価学会のご用機関紙に堕ちた毎日新聞は読まなければいいだけの話である。読者離れを加速し、さらに毎日新聞を貧窮化させないことには分かるまい。毎日新聞と創価学会の経済的なつながりについては「週刊ダイヤモンド」04年8月9日号が要領よくまとめている。

  〈聖教新聞を最も多く受託印刷しているのは、毎日新聞グループの東日印刷と見られる(公明党が2002年に支払った公明新聞の印刷費は、22社中で最大の約3億円)。さらに、同じ毎日系で東北地方をカバーしている東日オフセット、毎日新聞北海道センター、縮刷版を印刷しているエスティ・トーニチの分も加わる。東日印刷が聖教新聞に出稿する広告のコピーは「聖教新聞とともに半世紀。」である。(略)その東日印刷(略)などの経営者6人に対して「創価大学最高栄誉賞」が贈られた。受賞理由は「活字文化への貢献」である〉

  新聞が活字(正確には文字)で印刷されるのは間違いないとしても、新聞の第一義は報道にあるはず。活字文化で括れば、雑誌も単行本も含まれる。新聞は必ずしも「活字文化」の代表選手ではないが、あえてそう言わなければならないのは、さすがに「正確で偏らない報道」とはいえない疚しさを感じているせいかもしれない。今回の北村社長会談でも、言うに事欠いて「活字文化」を称揚している。
 
  「創価学会に身を寄せる」ことを意思表明

  〈若い世代を中心に「新聞離れ」「活字離れ」が言われて久しい。ラジオ、テレビ、そしてインターネット。メディアが発達し、多様化するなかで、新聞の未来はどうなっていくのか。新聞は何を変え、何を守っていくべきなのか―日本の3大紙の一つである毎日新聞のトップリーダーと、本社の名誉社主である名誉会長が語り合った〉(今回の記事のリード部分)(名誉会長は(略)「新聞は『活字文化の黄金柱』として勝ち栄えていかねばならない」と応じた。そして年来の主張である「活字文化」を守り、発展させることの重要性を強調。「(略)昨今の青少年の心の荒廃も、活字文化の衰退と深い部分で関係しているのではないか」と憂慮した〉(同前)

  新聞記者が記事を書いたとして、読者から「すごい、活字文化に貢献しましたね」と褒められたら、「野郎、俺を舐めやがって」と怒り出すだろう。おまけに池田氏は学会べったり、学会に物申せない毎日新聞をさらに学会側に引き寄せようとするかのような言を吐いている。〈イギリスの歴史家・トインビー博士は、鋭い社会批評でも知られるが、名誉会長との対話の中で、こう言っている。「マスメディアは中立的に用いられるべきです。しかし、一個人や一社会の判断で善悪・正邪が明白な問題に関して、中立を保つことは、不可能であるし、たとえ可能だとしても、それは正しくありません。自分が正とみなすことと、邪とみなすこととの中間で、中立の立場をとろうとするのは、結局、邪とみなすことの側に与することなのです」名誉会長がこの言葉に触れると、北村社長は「たとえば左の立場と右の立場があったときに、双方をつきまぜて、どこからも批判されないようなものにして、こと足れりとするのは、本当のジャーナリズムとは言えないのではないか」との考えを述べた〉

  筆者は創価学会は社会的、政治的に害を流している、邪の存在であると考えている。そうした筆者の考えは「一個人、一社会の判断で善悪・正邪が明白な問題」とした上での結論だし、「明白な問題」という基準に照らしても正しいと考える。他方、池田氏や多数の創価学会員は創価学会を正と考えるが、それは「一社会の判断」に照らせば、正しくない。なぜなのかは創価学会、公明党に関する各種の世論調査で明らかだろう。たとえば選挙情報専門サイトの第41回オンライン世論調査によれば「あなたが政権を持ってほしくない政党は?」という設問で第1位に挙げられたのが公明党52.4%である。依然として日本国民の多くが創価学会・公明党を信用していないし、警戒し、嫌っている。

  ところが毎日新聞・北村社長は「双方をつきまぜて、こと足れり」とはしないと明言している。明言の相手が池田氏である以上、より創価学会に身を寄せることの意思表明と理解できる。困ったものである。家貧しくして孝子あらわるとばかり、毎日新聞には優れた記者が何人かいる。そういう記者たちがいじけ、ひがまないよう願うばかりである。

   自社紙面でも「ご用聞き」に徹する

  北村社長は01年の9.11時には毎日新聞主筆だった。彼は事件直後、岩見隆夫特別顧問と池田氏に会い、ご意見拝聴している(毎日新聞01年9月25日付)。北村氏は当時から池田氏に対し、両手もみもみ、ご用聞きに徹していた。

 〈北村 7月の参院選は大変な小泉フィーバーで、その後も内閣支持率はあまり下がらない。高いときには90%近くです。危ないという人もいますが。

池田氏 私も同感です。日本人の、はっきりしないものに対する何となくという人気。強い哲学性も政治観もなくして、付和雷同する。その表れの一つだと思います。90%の支持率は明らかに異常です。(略)人気があるといって、何もまだ仕事はしていない〉

 〈北村 創価学会は70年を超えました。今、創価学会はどういう段階にあるのでしょうか。長年、指導者の立場にある点をどうお考えですか。

池田氏 ほぼ日本の1割に(会員数が)なりました。基盤ができ上がったと見ています。当然指導者がいなければ、組織は正しい方向に動きません。(略)独裁などあり得ないし、時代遅れです。(略)会議も私があまり出ると皆が遠慮してはいけないと思い、原則として出ないように心がけています〉

 〈北村 名誉会長、最近までずっとマスコミに登場しなかったのですが、最近、朝日新聞への寄稿から始まり、登場が続いています。何か思うところがあってですか。

池田氏 創価学会というと、すぐに公明党と見られがちです。その公明は自民と一緒になってます。一般の方々は学会も同じように、つながってしまっていると思われかねません。そのように思われることは学会にとっては非常に迷惑なことです(略)〉

 池田氏においしい話題を振って、言わせっぱなしにする。突っ込みもしないし、反問もしない。ジャーナリズムを云々する資格はないと知るべきだろう。しかもこうしたおべんちゃら会見がどれほど毎日新聞の信頼を損ない、紙面を安っぽくして、読者大衆から軽侮を買うか、分かろうとしない。新聞としては自殺行為だが、もともと毎日新聞の前身だった東京日々新聞は福地源一郎が主筆だった時代、政府のご用新聞だった歴史もあるし、長州藩閥の機関紙と化した時代もあった。三井、三菱に買われていた時代もあったし、スネは傷だらけ、今さら天声は聞きたくないということかもしれない。

 しかもどの時代にもおべんちゃら読者はいるもので、聖教紙が池田・北村会談を大きく伝えた10日後、聖教紙の「声」欄は〈毎日新聞社長との「対談」に感銘、新聞のあるべき姿を示唆〉とする薬剤師、60歳と名乗る女性の投書を掲げている。

 〈池田先生の「活字を読まず、映像文化だけで育つことになれば、人間の『骨格』の部分から変わってしまいかねない。昨今の青少年の心の荒廃も、活字文化の衰退と深い部分で関係しているのではないか」との指摘に、深い感銘を受けました〉

 新聞は活字で印刷されている(活字の内容は問わない)、新聞が活字で埋まっている以上、新聞に目をさらしているかぎり青少年の心は荒廃しないわけ。結構毛だらけの話だが、こうして読者ならぬ新聞本体は荒廃の度を深めていく。
(フォーラム21、2005年8月15日)

  この溝口さんの指摘を守り、「創価広告の入った新聞・週刊誌は読まない!」と決めたところ、殆どの雑誌メディアが読めなくなってしまいましたw 日刊ゲンダイは創価広告を載せながらフォーラム21の執筆陣もコラム連載するという怖るべき布陣、まあどこも苦労してはいるのでしょう。感情的な日刊ゲンダイは最近聖教新聞化、豪華コラム陣が泣きますぞw 仕方なくいまは有名週刊誌を数冊読んでいますが、名前を出すと過剰な拒絶反応が来るので書きません。敢えてマスコミは全部クズだ、といいたい。実践舞踊研究家に憲法学の要素が注入され、名門“せとうちパイレーツ”の末裔があらら女性らしくなっちゃった・・・かどうかは知りませんw 居酒屋は盛況らしいですね。

  宗教上では法施の功徳、布教の功徳というのは確かにあるのです。正法ならばそのように、似非宗教ならばそれなりに、です。例えば週刊文春と週刊新潮はここ数年、阿含宗の星まつりのPR記事を掲載しています。広告費は阿含宗が払っていますが、法要や教団の紹介記事は編集部の記者が取材を元に書いています。特に週刊新潮の記事は見開き2頁に渡り、阿含宗の活動内容が簡潔にまとまり、抑えた筆致で好意的に書いてありました。しかし阿含宗は同じく溝口氏の週刊ポストの記事で教祖自身の女性問題をスッパ抜かれ、教祖が最終解脱したブッダではないことを証明してしまいました。

  溝口さんは新興宗教のインチキ教祖の下半身スキャンダルを取材しただけかも知れませんが、信者や関係者の衝撃はちょっと違いました。信者からは桐山さんは元々世俗の問題を残した人間だが、題目や滝行や密教や釈迦の瞑想法を修行して、超能力や霊能力、仏陀の境地を見地した、と概ねは信じられていたからです。教祖が釈迦の修行を終え、己の人生問題を解決してしまった。従って信者会員は各自の人生問題を阿含宗の修行で解決できる、というのがこの宗教のウリだったわけです。仮に女性問題が存在しても(これは論理的におかしいのですが)、桐山さんはその醜聞をぶっ飛ばしてしまう、現にかつてはあれだけバッシングしていたマスコミ、週刊新潮も提灯記事を書かせるまでに躍進したじゃないか、そう信じていた。清廉潔白な釈迦そのものでなくとも、浮世の因縁解脱=問題解決・解消能力を有し、実生活に対応できる「おちから」が授かればそれで充分、そう考えていた会員も多い。それが嘘だった、幻想が砕け散ってしまったわけです。

  で、週刊新潮は以前はこの教団を批判していたにも関わらず、おそらく対創価対策としてなのか、カラーグラビアで提灯記事を掲載したわけです。週刊文春もそうです。最近この週刊誌に何が起きたか。そう、明らかな捏造記事を指弾されたのです。私はこの現象を、デッチ上げ宗教である阿含宗を広告した“痛いご利益”だと思っています。デッチ上げ嘘っぱち宗教を広めたら、自分の週刊誌が嘘つきであることが世間に露呈してしまった。週刊文春などは日曜朝のコンビニ棚に20冊前後も売れ残っていたのです。これは偶々私の行った店舗だけの出来事でしょうか。

  さらに、創価学会を広告したご利益はどのようなものでしょうか。私の考えは「アテが外れる、見込みが裏切られる、思わぬ件から梯子を外される」です。日刊ゲンダイ、週刊ポスト、非常に優秀な雑誌です。でも創価の要素が入り込み、結果小沢の乱の予測を悉く外し、ポストは原発被害を軽めに見積もってしまいました。週刊朝日も菅首相の献金スクープ直前に大震災が起こり、山口編集長もSVに引き、踏んだり蹴ったりです。お世辞ではなく、これら三誌は本来非常に優秀な鋭いジャーナリズムの媒体です。読者はそれを知っています。しかし創価広告や内部に創価支持者が存在するために、思い切った言論や、相応の評価を受けることが出来ません。さらに悪いことには、そうした不幸の脱出法として、ますます一層創価広告に依存する傾向があるのです。周囲のこうした事例を積み重ねて行くと、創価学会は人々に「強力な助太刀」を期待させ、肝心なところでその梯子を外してしまう、または内実備えたノウハウがあるのにも関わらず、結局不首尾に終わる、といったパターンが見えてくると思います。特に私が「創価シンパ」と呼んでいる、非会員であるのに創価に殊更親近感や同情心を覚える人間は、曼荼羅本尊を日夜拝んでいる本会員に、その生命力や運気、手柄などを吸い取られ、奪われてしまう事が多いのです。創価学会による義捐金は5億円、久米宏の個人募金は2億円・・・教団の規模と財力を考えたら、この宗教がエゴと虚栄のためにあるのか、世のため人のためにあるのかは一目瞭然です。私の周辺の知人では、ダイソー大好きな右寄りの人が自転車通勤中一人でいきなり横転して顔面潰したり、良性ポリープ切除で緊急入院した美人で気さくな女性とかいますけど・・・工場の機械が原因不明で故障したり、個人が電磁波で発狂したりするのはしょっちゅうですが。たけしさんや勝間さん、鳥越さんのケースとは関係ないですよね。洗脳されると眼がドロンとして、上から目線のキツイ命令調に豹変するのでコワイですよーw

  私は一介の素人であり、出版社の経営状況についても全く解りません。しかし世相が乱れる昨今だからこそ、正鵠を得た真摯な記事や、文章が読みたいと思うのは一読者として、これ当たり前の事ではないでしょうか。それにしても大勲位対談の次週に実名批判、さらに週刊ポストを糾弾するかのような某評論家先生の新刊紹介コラムは凄過ぎ・・・ってどこか解っちゃいますねw やっぱり反論はあった方が健全だ、それがメディア・マスコミ本来の姿だと思うので・・・これでは私の方がタイトル違反かな? 全然関係ないですけど、火野正平さんも自転車紀行やらSM映画で忙しいですねーw 小向美奈子さんも大いに励まされたと思います。NHKって実は目茶目茶マニアックなんですよね。それを「無難」のコーティングでお茶の間に出す! だから人気があるんですね。いいことはもっとやりましょう!w

脱原発は愚民の集団ヒステリー?(植草一秀)

  イタリアで脱原発の国民投票が可決されたことについて、自民党の石原伸晃幹事長が「集団ヒステリー」だと発言した。日本では、東電の原子力事故損害賠償負担を国民に転嫁するという東電救済案を政府が閣議決定したところ、東電株がストップ高を演じた。
 
  かたや、福島県では飼育していた乳牛を原発事故のためにすべて手放さざるを得なくなった酪農家が、将来を悲観して自殺したことが伝えられた。原子力発電は他の発電方式に比べてコストが安いと言われるが、コストが安いのは、最終的な限界部分においてだけである。原子力発電の設備をすべて整え、地元の自治体に巨大な補助金を政府が支払い、また、政府が巨大な費用を投じて使用済み燃料の処理費用を負担する。
 
  これらの巨大な費用はすべて計算の外に置かれ、すべてのお膳立てができたところで、使用する燃料コストだけを比較すると、原子力発電が他の発電方式よりも安価であるというだけに過ぎない。ただし、これは、電力会社の損益計算上の真実ではある。電力事業に対しては、政府が巨大な資金を投下している。これらの、広い意味での補助金を得て電力会社は事業を営んでいる。原子力事業に関しては、政府負担が圧倒的に大きいために、最終的な発電コストにおいて、原子力が火力や水力よりも有利になっているだけにすぎない。
 
  しかも、電力事業では地域独占が許されており、価格競争が実質的に存在していない。だからこそ、法外な広告宣伝費を計上できるのでもあるが、電気事業法では、料金設定が事業の原価に利益率を乗せた形で決定される。この方式では、設備に膨大な費用が計上される原子力発電を採用した方が、獲得できる利益の絶対水準が大きくなる。電気料金の決定体系のなかに、巨大な設備投資を必要とする原子力発電が促進されるメカニズムが内包されているのだ。
(6月15日、抜粋)

  結局、原子力発電に関しては公共料金と補助金(=税金)とに負担を分担してあるから、公共料金が「安い」というだけの話ですよね。名目上のコスト計算に地球の自然環境は勿論、大量の人命・財産までもが犠牲にされたのです。この「人災」に関して「人間てのはいつか死ぬんだよw 電気使わなきゃ人間らしい暮らしできないだろ」の一言で頬かむりできると思いますか? 石原伸晃が首相になったら原発に異論を唱えただけで即逮捕は間違いないでしょう。石破・前原は核の商人、軍需産業御用達の営業マン・・・あっ、これは余計かw

  いまや日本の全発電量の26%を占めるまでになった原子力発電だが、福島原発事故を機に、「原発はないほうがいいのでは」との声も上がる。だが、いまさら生活は変えられるのか?「原子力がなくても、現在の火力+水力だけで充分にまかなえます」というのは、京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏だ。「日本では、使われていない火力発電所が相当数あるんです。そういった発電所を稼働させれば、原発を全部止めて、廃炉にしても問題ない」「東海地震の予想震源域にある浜岡原発をはじめ、即刻すべて止めるべき」と、小出氏はいう。

  世界にはすでに“脱原発”に踏み切った国が存在する。イタリアだ。1986年のチェルノブイリ原発事故を受け、イタリアは1987年に国民投票を実施。当時稼働していた4か所の原発を順次閉鎖することを決定した。現在も続いている解体作業は2019年までには終える予定だという。しかし代償として、エネルギー需要の80%以上をフランスなどからの輸入に依存せざるをえない状態になっている。最近は安定しない電力供給に、再び原発を持とうという議論があがっている。
(女性セブン、4月28日号)

  で、先日の国民投票でやはり原発反対が9割以上を占めたわけですね。日本も原発の国民投票を早急に実施する必要がありそうです。賛成が多かったら続行すればよいのですから。

国民よ、いいかげん問題の本質に目を啓け

  何度も投稿しているがいつまでたっても変わらない。なぜ政治家だけを馬鹿の一つ覚えのように責めて自己満足しているのか信じがたい事だ。原発事故の問題も菅直人が視察したからとか海水の注水がどうしたとか、結果論のようなどうにもならない事をマスコミが騒いで、それに乗っかって騒ぐ国民心理のひどさにはあきれるばかりだ。問題の根っこにあるものは何だったのか、それを我々が追及しないで何が解決になるというのだろう。

  同じことは震災復興でもそうだし、社会保障問題や少子化問題、経済の低迷や財政悪化の問題でもそうである。この国の国民は自分の判断は何もしないかのようにマスコミに踊らされている。世論調査という世論操作はひどくなるばかりだ。菅直人の後継者一つをとっても本当に信じられない結果がマスコミによって堂々と報道されている。後継者と言われるのは今の政権にいるアホ議員ばかりで小沢一郎という主役は完全に無視されている。菅直人が退陣しなければならないのなら同じ政権にいるアホ議員たちがなぜ候補者になるのか、その理由は何も報道されない。国民をここまでバカにしたマスコミがどこの世界にあるのだろう、本当にあきれるばかりである。

  問題の本質を何も追及もしないし、真実を国民に見せようともしていない。この国を実質的に動かしているのは誰なのか、いい加減に国民も気づくべきである。そしてその理由は何なのかを考えて見た事はあるのか、我々自身が自問してみればいい。 なぜ自民党も公明党も子ども手当や高速無料化に反対しているのか。理由はひとつ、官僚が既得権を持つ事業を守るために過ぎない。原発の補助金政策やそれに関わる独法などの天下り先に対する巨額の補助金の合計は何兆円にもなっている。どちらが「ばら撒き」なのか、実態をマスコミは何も報道しない。国民に対する税金を使う政策だけがなぜばら撒きなのか、全く論理破綻しているのに、誰も不思議と思わない異常性はどこから来るのだろう。

  なぜ国会議員は無力なのか、政治が無力なのか、それは自分たちが持っている立法権を放棄しているからに他ならない。民主国家の基本である法治国家という基本的なものは誰が法律を作るのかと言う事である。ではこの国では誰が法律を作っているのか、答えは簡単だ、行政府の官僚たちである。その事実をなぜ誰も変えようとしないのか、国民全員が思考停止したまま何も行動しない。ましてや国会議員たち自身が何もしないという異常性は何なのであろうか。本当に情けない国である。自分たちが選出した代表者が法律を作らなければ何が生活に反映されるのだろう。

  冤罪が起きても何も変わらない、公務員の不正に対しても何も変わらない、税金が国民に還元されていない事も変わらない。何故だか考えた事はないのだろうか。政権交代したのに何も変わらないのはなぜなのか、考えた事はあるのだろうか。全ての原因は政治家の立法権の放棄にあるのだ。官僚という公務員の責任も問えないで誰が主権者になれるのか。なれるための公務員制度を変える法律を作る事でこの国は激変できるのに何もしない。我々はあまりにもお人好しであり無知である。本当のバカは我々国民なのだ。
(6月17日)

菅原文太・落合恵子「原発存廃の国民投票を」(J-CAST)

  日本でも原発の是非を国民投票で問うべきだ―俳優の菅原文太さん(77)が記者会見で提案したほか、著名人らが名をつらねる市民グループも国民投票実現を目指している。イタリアに続き、日本でも「原発国民投票」が行われる可能性はあるのだろうか。「ドイツもイタリアも脱原発をはっきりさせた。日本も国民投票をやってほしい」。映画「仁義なき戦い」シリーズなどで知られる菅原さんは6月14日、会見の場でこう話した。

   現状のままでは無理で、新しい法律が必要

  菅原文太さんは「菅首相の最後の大きな仕事」だとして国民投票実現を挙げた。会見は、東日本大震災の被災者の他県などへの移住・疎開を支援する取り組みを発表するために東京都内で開かれた。菅原さんは被災地、宮城県仙台市出身だ。会見には、原発事故で揺れる福島県出身の俳優、西田敏行さん(63)も出席。西田さんは「個人的には原発はノーです」と断言した。菅原さんは、第2次世界大戦時の「日独伊三国同盟」を引き合いに出し、「原発はやめろという良い意味での三国同盟を作ればいい」と提言した。

  菅原さんの三国同盟発言は、福島第1原発事故を受けてドイツとイタリアで脱原発をめぐる動きがあったことを受けたものだ。ドイツでは6月上旬、「2022年までに脱原発」を閣議決定した。イタリアでは先日、原発再開の是非を問う国民投票があり、投票率5割超で反対が9割超という圧倒的な差で民意が示された。原発再開を目指していたベルルスコーニ首相は「イタリアは原発にさよならを言わなければならない」と敗北宣言した。

  ところで、日本でも原発の是非を問う国民投票は実施可能なのだろうか。総務省などによると、現状のままではできない。通称「憲法改正国民投票法」が2010年5月に施行されているだけで、憲法改正についてのみ、国民投票が実施できることになっている。自治体単位で行われる住民投票は別物だ。では、新しい法律をつくれば良いかというと問題もある。憲法が、国会について「国権最高機関、唯一の立法機関」と定めている規定に照らし、法的に拘束力がある国民投票にしようと思えば憲法改正が必要になってくるとの見方が支配的のようだ。ただ、法的拘束力を持たせず、「国民の意見をきく」という形の国民投票なら、憲法は変えずに新法をつくれば実施できそうだ。

   落合恵子さん「市民が考えることが大切」

  こうした「諮問型国民投票」をめざす市民グループが5月にできていた。名前は「みんなで決めよう『原発』国民投票」で、サイトをみると「呼びかけ人」の中には、作家の落合恵子さんや作詞家で音楽評論家の湯川れい子さんらの名前が並んでいる。「賛同人」欄には、詩人の谷川俊太郎さんも登場している。同グループは、6月25日に都内で設立総会を開く。すでに法案をまとめる作業を進めており、来2012年3月末にも国民投票を実施できないかと、具体的なスケジュールも想定しつつ準備中だ。今後、市民や国会議員らに働きかけを強めていく。

  落合恵子さんに話をきくと、「とにかくここで一度立ち止まって考えましょう。賛成でも反対でも良いんです。市民が考えることが大切です」と訴えた。「呼びかけ人」のジャーナリスト今井一さんに電話すると、「先ほど名古屋の河村たかし市長に会い、市長が『賛同人』として署名したばかりです」と明かした。今井さんはさらに、「今のような状態を招いた政治家たちが『自分たちが原発の将来を決める』なんておこがましい」と指摘。少しでも早く国民投票が実現するよう政治家が努力するのは当然だ、との考えも示した。投票結果が出れば尊重せざるを得ないため、「諮問型」で十分だと考えている。今後、西田敏行さんや「国民投票」発言をした菅原文太さんにも案内の文書を送るつもりだそうだ。
(6月15日)

  日本での大事故を踏まえて先進国では国民投票が行なわれているわけですから、日本でも実施されて当然でしょう。ここはイデオロギー色を極力取り払い、国民各自の自然なホンネで投票が行なわれるよう、各政党は勢力を結集すべきです。脱線しますが、小学生の頃の日曜夜は笑天~ずっとフジテレビ(花王名人劇場まで)~それからAMラジオで「落合恵子のちょっと待ってMONDAY」と「五木寛之の夜」~「斉藤洋美のラジオはアメリカン」と深夜2時ごろまで「これは聴かなくっちゃいけないんだ!」と寝床でろくに意味も解らず、ずっとラジオにかじりついていましたね。また中学生になるまでは、私の親は必殺シリーズを、「共産党の過激派になるからダメ」と見せてくれませんでしたw 昔の放送は逆にそればっかりだったのですが、いまの放送はタブーを破るドキドキ感がないんですよね。まあ、深夜枠で娯楽としてしか伝えられなかった事を、少しずつでも民主的に現実に実行する時期に入ったのではないでしょうか。

イケメンに要注意?~日蓮宗と断片化

   ぎっしりと参拝者で埋まった会場の説法台に坐った日達上人が、怒り心頭に発して怒鳴りまくっているのだ。その前に土下座して謝っているのは、州都パトナから駆けつけた肥満体のビハール州知事だった。通訳はいなかったが、必要なかった。言葉は分からなくても、怒っている理由は分かっていた。「わしを1時間も待たすとは何ごとじゃ!」

  日達上人が怒号を発するたびに、知事は震え上がって平身低頭するのだった。「獅子吼」という言葉があるが、人間はマイクなしでもこんな大音声が出せるものかと驚くばかり。時に日達上人85歳、まさに「念力」である。しかし時間の観念が極めてルーズな熱帯インド、それも州都から車で数時間もかかる山間僻地で、たった1時間約束の時間が遅れたからといって、これほど怒ることがあるのだろうか、と思った。その上、問題発言があった。「わしがインドを見捨てたら、インドはどうなるか分かっておるのかッ?」
 
  もちろんこの傲岸不遜な言葉の意味など、知事には分からないはずだが、ついに知事は天を仰いで赦しを求めた。州知事という世俗の権力者が、日本人老僧の「念力」の前に打ちのめされたのである。ガンディは日達上人から贈られた団扇太鼓を叩いて、「ナムミョーホーレンゲーキョウ」の祈りを、彼の日々の勤行のひとつに加えたらしいが、折伏はガンディ1人で止まったようだ。果たしてインドの民衆が「ナムミョーホーレンゲーキョウ」という日本の仏教を必要としているのだろうか。果たして日達上人がインドを見捨てたら、インドは困るのだろうか。

  さて、日本山妙法寺はもとより、日蓮宗の根本教典といえば、蒙古襲来の脅威を台風が一掃した鎌倉時代、日蓮によって書かれた『立正安国論』である。その言わんとするところは、未開野蛮の外夷に対する島国日本の安心立命は、南無妙法蓮華経を念じて念力で「神風」を起こすことである。道元などのエリート僧のように海外留学の経験のない日蓮にとって、日本が世界の全てであった。日蓮の書いた「字曼荼羅」には、髭題目と言われる文字の筆端をヒゲのようにはねて書く「南無妙法蓮華経」を囲んで、日の本の大日如来から、太陽神の天照大御神までがオンパレードだ。

  外国を未開野蛮の外夷と決めつけ、日本を法華経の仏国土と見なす国粋主義日蓮宗は、明治近代の「天皇陛下万歳教」に容易に結びついた。それはアジアを未開劣等民族と決めつけ、神国日本が啓発、統治すべき「大東亜共栄圏」というヴィジョンのもとに、アジア侵略を正当化する一方、欧米列強に対しては「鬼畜米英」の逆差別意識を助長した。

  2.26事件の北一輝や、A級戦犯の大川周明など、国粋主義右翼のイデオローグたちが、日蓮宗の信徒として『立正安国論』に基ずく法華思想に殉じたように、日本山妙法寺の開祖藤井日達上人の思想的背景もそのへんにあった(勿論、北一輝は銃殺刑を執行されるとき「天皇陛下万歳」とは言わなかった)。「大東亜共栄圏」の法王の意気をもって、満州荒野の満人の村々に、仏舎利塔を建立した日達上人には、右翼の巨魁頭山満という親友がいて、満州の情報が逐一頭山満に送られ、日達上人の後を追って特高警察が、そして関東軍が続いたという。そのため日本から満蒙開拓団が現地に行ってみると、仏舎利塔のある村々に、満人を追い払った空家と、作付けされた畑が待っていたのだった。キリスト教の宣教師が、植民地侵略の先兵の役を演じたように、日達上人と日本山妙法寺も、満州侵略から南京虐殺まで、日本軍に協力したとして、戦後、宗教評論家丸山照雄から痛烈に糾弾された。

  卑見ながら仏法の眼目とは、感情悪化の原因を瞑想によって深層意識に探し出し、それらを自覚・削除する事によって表面的な激怒・悲嘆といったいわゆる「我を忘れた現象」―当然それらは感情的なトラブルの元凶となるわけですが―を予防することにあると思います。異国の高僧と知事が参拝者を前にトラブっているなんてありがたくもないし、醜悪なだけです。高僧の方が「遠路よくお出で下さいました」と到着を労い、さっさと法要なり説法なりに移ればよいだけの話。ガンジーはどうしてこんな人を信じてしまったのでしょうか。

  深刻なニュースが続く昨今、特にテレビの報道キャスターやシリアスなドラマの主役はイケメンでないと特に女性の視聴者に受け入れてもらえない、という風潮があるようです。勿論二枚目俳優、というのは昔からいました。でも最近の風潮は違うんですね。はっきりと、「三枚目のブ男はマジメな、社会的な話をするな! いつも愉しい話をしてくれる、イケメン・二枚目の男性にこそ社会的オピニオンを述べてもらいたい」・・・まあ率直な感想でしょう。男性だって美人キャスターが大好き、気持ちは分からなくもありません。でも、これって完全な「論点のすり替え」ですよね。もうクライ話は聞きたくない、明るい景気のいい話題がほしい、というわけでしょう。

  男性にだったらコドモみたいに物事の片面ばかりでなく、明暗両方見ないとダメだ、といえるでしょうが、一般の女性で落ち着いてシリアスに考察を進められる人は稀です。で、途中まで来ると、「イケメンがいい~」となるわけです。これは前述した自我の両面、優劣の優の部分にしかアイデンティティを持てない未熟な女性(勿論男性も)が比較的多い、という事実を示しています。このような未熟な自我の人は常に軽蔑対象を見出していないと、安心する事が出来ません。常にコインの片面にしか過ぎない自分の優の部分を安定して保とうと、恐怖と陶酔にかられて落ち着くヒマが無いのです。コインの裏表、優劣一体となってはじめて統一体としての自分なのです。この考えがサトリや仏法と関係あろうがなかろうがどちらでもよいのです。

  法華経、または日蓮題目を読んで唱えると男女共に見目麗しくなる、と言われています。まあ観音さま以外の仏さまでも美男美女になる功徳がメニューに載っている事は多いのですが。たまたま私は、これまで出会った宗教の先生が、「ほう、ホケキョウ!w」と叫んで、「ああ、それはコドモの玩具ですね、仏教の修行には全く必要ありません」「あの功徳と懲罰の羅列は胸糞悪い」という見解の方が複数で多かったので、このような考えに至っておりますが、やはり人間の自我というものを断片化してしか捉えられない人はコドモといわれても仕方がないでしょうね。週刊ポストのマックのバイトを軽蔑するのは差別ではない、ということですが、原発御用学者が福島原発で必死の復旧作業を行なう人々に対して、「俺は努力して東大出たんだ! 日当ほしさにそこまでできねーや! お前らみたいにはなりたかねーよ、バーカ!」と叫んだとしたらどうでしょうか。このコラムの筆者はまさにそういう事を言っているのです。

  学歴がなくても成功している人、高くても世間の迷惑にしかなれない人、世の中は多様で千差万別です。人生の価値も人それぞれ。どうしてそこまでスッキリと単純化できるのか、そしてそれを知性的だと思えるのか、私には理解できません。元記者といいながらこの程度の見識度、このコラムと寂聴さんの法話とどう繋がって行くのでしょうか。小島慶子さんも日活ロマンポルノで盛り上がっていたようですが、そんなにお好きなら水着撮影の次にご自分で主演されたらいかがでしょうか。この密教と官能・理趣経の関係は正直、私にはよく解りません。我流には「仏さまは特にお願いしなくても、痒いとこまで手が届くような存在だ(精神性のために肉体・感情をないがしろにするようなことはしない)」と理解しています。私は違いますが、問題は何故真言宗は日蓮宗をけなす必要を感じないのに、日蓮宗は真言宗ほか他宗をけなさずにはいられないのか、という事です。

  何故シリアスな話題になると、「やっぱりイケメンがいい!」と叫ぶ女性が出てくるのでしょうか。私の答えは、「自我が未熟で断片化しているから」です。または「反共の砦である創価学会関係者以外はニュースのコメントをするな」というソフトな言論弾圧です。しかし学会関係者はゴマスリもあってか、このご時世も差別・蔑視発言全開のようですね。「反共にはいつか裏切られる」共産党でなくとも蟹工船の教訓はよくよく噛みしめるべきです。国民新党の得票率は実際の評判より低く、何やら不正に工作されているような印象すら覚えます。亀井さんも小沢さんもイケメン云々など云わず、総理のお鉢がまわってきたらドンと引き受けて貰いたいものです。一見恰幅威勢のいいカルト宗教の本尊の正体は、上記のようなヤクザで横暴な“大狐の霊”なのかも知れません。勿論三枚目専門の私がお伝えしました。

  週刊誌の誤報・ガセネタ・敗訴謝罪というのはよくあることです。でも毎号買っている人はその位でその週刊誌を買うのをやめないですよね。叩き記事ならかえって面白がって買うでしょう。今回の週刊文春の森功氏による森ゆう子氏についての誤報記事、それによる本誌大量の売れ残りは、マスコミと一般読者との間に大きな乖離があることを示しました。単純に記事がガセでも、読者が「オザワは本当は有罪なんだ」と思って信じていたら文春を買うだろう、って事ですよ。「女の森議員なんか小沢グループなんだろ? きっと札束握らされて裏で口利きに一枚かんでるんだ」と読者の多数がそう考えていたら、ガセでもウソでも週刊文春は普通に売れていたでしょう、ということです。週刊文春なんて明らかに保守的で、親中で宮内庁に反発する小沢さんなんか嫌いな読者が少なくないと思います。それなのに何故森議員の告発、さらに森氏本人の謝罪で大量に売れ残ったのか? それは読者の側が「小沢さんは本当は無実なんだ、既得権益を擁護するために冤罪工作を仕掛けているのはマスコミの方なんだ」という構造を見抜いているからに他なりません。反小沢・右寄りを自認する週刊文春の読者層でさえ、そう考えている事実は重大です。社会問題を論じている個人の欠点を徹底的に挙げつらい、自己陶酔の嘲笑や“キツネピラミッド”たる組織への忠誠を繰り返す、姑息卑劣な人間のクズにすぎない、「自称優等生」が少なくないようです。

イタリア国民投票で94%が原発を否定(時事通信社)

  原子力発電所を持たないイタリアで13日、過去に全廃した原発の復活の是非を問う国民投票が即日開票され、成立条件である50%超を大幅に上回る投票率に達し、復活拒否が決まった。反対票は94%を超え、国民の圧倒的多数が脱原発を支持した。福島第1原発事故後に国民の審判で原発反対を選択したのは同国が初めて。政府が目指す将来の原発新設計画は白紙撤回される。イタリアのANSA通信によると、ベルルスコーニ首相は同日、「イタリアは原発を放棄し、再生可能エネルギーに依存する判断を下すだろう」と発言。政府の計画が国民に事実上、否決されたとの認識を示した。イタリア内務省によると、最終的な投票率は57.0%。国民投票の成立に必要な50%超を大きく上回り、国民の関心の高さが浮き彫りになった。(6月14日)

民主党支持率、微妙にUP(エレクトロニック・ジャーナル)

  2011年6月2日─菅直人首相がきわめて曖昧ながら、期限付きの退陣を表明した日です。その日に首都圏で行われた世論調査があります。もちろん退陣表明後の調査です。この調査結果を見ると、非常に興味深いことがわかります。菅内閣の支持率は次の通りです。

 『菅直人内閣を支持するか』
     支持する  ・・・・・・・ 37.4%
     支持しない ・・・・・・・ 58.4%
     分からない ・・・・・・・  4.2%
                   6月6日付、産経新聞

  支持率は菅政権にしてはやや高目に出ていますが、相変わらず不支持率は高い状態のままです。他の世論調査と大きく変わるところはないのです。ただ、ひとつだけこの調査では今までの数値と大きく違うところがあったのです。

 『次の衆院選でどの党に投票?』
  民主党    25.0 %  みんなの党   6.8 %
  自民党    24.6 %  たちあがれ   0.8 %
  公明党     3.2 %  新党改革    0.0 %
  共産党     2.0 %  無所属・他   3.0 %
  社民党     1.4 %  棄権する    4.4 %
  国民新党    0.4 %  未定     28.0 %
  新党日本    0.4 %    6月6日付、産経新聞

  この調査は、日曜日午前7時30分からのフジTVの政治番組「新報道2001」の最後にいつも表示されるのですが、この数字は6月5日の同番組で公表されています。これによると、民主党に投票するという数値がわずかではありますが、自民党を上回っているのです。私の記憶では29日の調査では民主党は15.0 %であったので、10ポイントも回復したことになるのです。それだけではないのです。この数値は今年の1月20日の調査(1月23日公表)で自民党が民主党を逆転して以来、実に18週ぶりの再逆転なのです。突然のこの逆転は、何を意味しているのでしょうか。

  それは、国民の民主党への期待がまだ少しは残っていたことを意味しています。しかし、2009年の政権交代以来、とくに菅政権になってからの政権運営は、あまりにもひどいので、支持率が下がってきたのです。それでも2011年の1月上旬までは、この調査『次の衆院選でどの党に投票?』の1位は民主党だったのですが、1月20日に遂に自民党に逆転されてしまったのです。しかし、菅首相が曖昧なかたちにせよ、退陣を表明したことで民主党への期待が少し回復したのです。自党の首相が辞める時期を口にしたことで、民主党への支持率が回復するのは皮肉なことですが、それでも少しは期待をしたのです。けっして自民党政権に戻したいと考えているわけではないからです。民主党に一票を投じた国民は、民主党ならば日本政治の閉塞状態を少しは変えてくれるのではないかと期待をかけていたのです。もっともその退陣時期を表明した菅首相は、その後、時期を明確にするどころか、続投すら匂わせたので、12日の「新報道2001」の数値を心配したのですが、民主党の25.0 %は変わらず、逆に自民党は23.6 %に減少しています。これは、民主党への期待が消えていないことを示していると思うのです。

  それでは民主党に投票した国民は民主党に具体的には何を期待したのでしょうか。自民党が「バラマキ4K」と揶揄する民主党の主要政策─子ども手当、高校無償化、(農家の)戸別補償制度、高速道路無料化が財源不足で菅政権はその撤回を画策していますが、これは国民に対するとんでもない裏切りです。これらの政策自体は、けっして悪い政策ではないのです。経済政策としても間違っているとは思えないのです。しかし、その実現には、恒久的な安定財源が必要です。その財源は事業仕分けをするぐらいでは出てこないのです。その実現には一にも二にも公務員制度改革を実現し、予算そのものの基本的な組み替えが必要になるのです。そのことについて、小沢一郎氏は代表時代に明言しています。

  しかし、それはきわめて難しい事業なのです。少しオーバーにいえば命がけでないとできないと思います。強力なリーダーシップを持つ首相の下に党が一丸となって取り組んでも何年もかかるはずです。民主党によるそういう改革が本当に進められると困る向きがたくさんあるのです。やって欲しくないそういう連合体は、それを実現させまいと、さまざまな妨害を仕掛けてきます。それは何でもありです。現在の小沢一郎元代表がまさにそういう目に遭っているといえます。現在、日本の政治は混迷を極めています。今回の大震災にも政治はきちんと対応できているとはいえません。根本的に何かが欠如しています。何がどうなっているのでしょうか。何もかもおかしいです。一体この国は何者によって支配されているのでしょうか。
(6月13日)

日本国憲法の「自然理性」VS官僚システムの「律令理性」(植田信)

  そう。本質論に入りましょう。なぜ民主党は意欲はあるのに実質的に権力を奪えないのか。これは技術論ではないんです。条約の最終的な解釈権が官邸にあるか、外務省の官僚にあるか。これは最終的には結果に出てくることなんですけど、確かに官邸に移れば脱官僚ができたとわかるんですけど、今これが踏み切れない状態ですよね。問題はなぜ踏み切れないかです。日本国憲法的には、もう政治家にあるのはわかり切っていることです。

  ところが戦後の日本は官僚主導だった。なぜかといったら、ここで律令理性論が出てくるんです。何で、それでは政治家はそこで自分たちが主人であると言えないのか。答えは簡単で、理由はアメリカなんですよ。これはアメリカにやられたんじゃなくて、アメリカがプレゼントしてくれた。これがスウィンク228。日本語で「日本の統治体制の改革」と訳されている文書です。

  アメリカの占領中の出来事で、日本国憲法はアメリカが急造したということは、よく知られていますね。これは当時の事情によって、マッカーサーが急遽GHQの民政局に指示して、たった9日間でつくられたと言われているんですけど、実はそれは間違いで、本当はアメリカは日本を戦争中にじっくり研究して、戦後、日本をして二度とアメリカに対して軍事的に対抗できないように。

  そうそう。ならないようにするためにはどうすればいいか考えたあげくに、デモクラシーを日本に導入するんです。国民主権ですよね。国民に主権を与えれば、絶対に意見が割れます。ところが、戦前の明治憲法だったら、結果的には軍部が主導しちゃったわけです。そこまで彼らは明治憲法を研究して、安全装置をつくるわけです。それが主権在民だったわけです。だけど、戦後の日本人は、ああ、自分たちに主権のある憲法が来たということで喜んでしまったわけです。

  それはそれでいいんです。両方とも解釈できるんです。アメリカにとっては安全装置、日本にとっては初めて自分たちが有権者として政治家を選んで、政治家が政治の主人となる憲法ができてうれしいなとなってしまうわけです。ところが、日本人は悲しいかな律令理性人だから、ここの意味が自分では全然わからないんです。制度的には自分たちが主権在民になって、有権者として政治家を選んで、政治家主導になったはずなのに、ところが律令制度の歴史が長いから、現実的に官僚が主導しちゃってきたんです。ここは、なぜこうなったかではなくて、実際にそうなってしまったわけです。

  だから、神国日本なんです。だから、西洋の人類学者とか文化研究者が、古代の人類の社会形態がどうなっているか知りたかったら、日本に来ればいい、ここにあると言った。それは近代人になった西洋人が全然予想も想像もできない姿である、と。しかしその一方で、祖先崇拝、これは見方によっては逆転するんです。それはラフカディオ・ハーンも言っていますけど、西洋文明が日本に来ると、これが完全に壊される。そして自由競争に巻き込まれる。そして日本は絶対に劣性に置かれる。なぜなら、ここが祖先崇拝のマイナス面なんですけど、祖先崇拝は自由競争を許容しない社会だから。なぜなら祖先崇拝ということは、要するに先祖の言うことを絶対正しいものとして、自分の意見を持たせない社会なんですよ。これが日本の政体の原理。

  だから、祖先を政体に置きかえれば、アマテラス神話なんです。アマテラスが『日本書紀』の中で何を言ったかといったら、この瑞穂の国は我が子孫だけが統治できる国であると。天皇ですね、それでここから万世一系になるんです。祖先崇拝を信仰している律令理性人がそれを信じる限りにおいて、思想的にはこの考えが今現在まで続いてきたわけです。

  だから、ここでアメリカ占領軍の天皇利用計画が生きてくるわけです。天皇さえ押さえれば、日本人はどうとでもなる、と。東京裁判のときはこれが現実だったわけです。極東委員会で天皇を死刑にすると言い出すわけです。それで、マッカーサーがこれでは天皇利用計画ができないから、それをやめるための処置として急遽日本国憲法をつくるわけです。あの時点ではつくるかどうかわからなかったわけです。天皇が生きて利用できれば、日本国憲法をつくらなくていいわけです。ところが、極東委員会が天皇を処刑せよと言うわけですよ。昭和天皇をヒトラーと同じように考えていたわけですから。ところが、アメリカは1942年の時点で、天皇利用計画をつくってしまっているわけです。マッカーサーもそれに従うわけです。アメリカは戦中から用意周到に準備していました。どちらの場合にも、天皇を利用できるように、と。

  藤原不比等が参考にしているのは唐の律令ですね。それで、日本流に焼き直したわけです。その辺のいきさつは副島さんも『小沢革命政権』(『小沢革命政権で日本を救え』)の中である程度述べています。これで一番の問題は、じゃあポイントに行きましょう。唐の律令と日本の不比等の律令の違い、ポイントに行きましょう。

  唐の律令は、皇帝が全部支配するんです。ところが、日本の律令では天皇は象徴になりました。権力がないんです。天皇は権威として祀りあげられます。日本の権力は太政官が持つ。太政官に誰がなるか。それで日本史では、この藤原不比等がつくった太政官をめぐる闘争史なんです。武士も太政官以上には行きません。なぜ皇族以外の他の日本人が天皇になれないか、一番はこれなんです。不比等がそこでつくってしまったわけです。だから、祖先崇拝の信仰にいる限り、日本人は絶対に律令システムを崩せない。

  これを崩せたのが、さっき言ったスウィンク228だけなんです。近代人の理性でなければ、「自然理性」でなければ、この律令理性は崩せない。だから、この自然理性と律令理性の区別がまだ明瞭に認識されていない民主党政権では、いくら脱官僚のスローガンを掲げても、現実的にはできない。
(2010年7月18日、抜粋)

  日本国憲法で基本的人権が保障されたのに、中身は701年大宝律令以来(!)の祖霊崇拝に基いた「官僚崇拝」のままの日本人。そうした欺瞞・歪曲を如実に反映しているのが現在のマスコミの惨状ではないでしょうか。日本人には神サマ教育よりもいま一度憲法精神の教育が必要なようです。しかし社民・共産共に基本政策に、みんなの党のような「官僚支配の打破」の一項を盛り込まない限り、理想主義や時代遅れのループから逃れられませんよ。官僚主導から政治主導へ抜本的転換ができれば、革命テロなどに頼らずとも、日本社会は1310年ぶりに「改新」されることになるのです。

財政投融資と特殊法人(教心ネット)

   「財政投融資」のウラ事情

  郵便貯金や厚生年金・国民年金は、「財政投融資」を行ったり資金運用をすることで利子や年金給付金にあてる資金を作り出しています。ですが教科書に載っていない財政投融資の裏事情があります。中学校社会科公民分野で財政投融資とは、「公的資金を住宅対策や都市整備や生活環境の整備、中小企業の振興などに融資すること」と説明されています。こう説明されると聞こえがいいですね。しかし、現実は特殊法人と呼ばれる一部の杜撰な団体によって100兆円以上(実際には不明)の公的資金が不良債権となっています。
 
  つまり財政投融資とは、「特殊法人の資金源になって、無駄なものをつくっています」あるいは「特殊法人に天下りした官僚の馬鹿高い給料・退職金です」と書かなければいけない。そしてなによりも、「こうしたお金は不良債権となったので、国民には返ってこないかもしれない」と書かなければいけません。

   特殊法人ってナーニ?

  ところで特殊法人とは、水資源開発公団や日本道路公団など、80以上もある団体です。もちろんその役割をしっかりと果たしている団体もありますが、中にはとんでもない団体もあります。キーワードは,「天下り」と「杜撰」です。水資源開発公団は、必要もないのに長良川に河口堰をつくりました。今から何十年も前に今後の水需要の増加を見込んで計画したものですが、実際は当初見込んだほどの水需要はなく、これからも増える見込みもありません。こうして水需要という観点からは河口堰の必要性はなくなりました。にもかかわらず、苦し紛れに塩害や洪水対策という理由を後から掲げ、結局長良川河口堰は計画通り断行されました。さらに問題なのは「環境に与える影響はない」と言っていたにもかかわらず、今長良川の環境は大きく破壊されています。鮎の遡上量は激減し、シジミはほとんどとれなくなりました。

  日本道路公団は、無料のはずの高速道路がいつまでたっても無料になりません。なぜいつまで経っても高速道路は無料にならないのでしょうか? それは「料金プール制」をとっているからです。料金プール制とは、黒字の高速道路の黒字分を赤字の高速道路の維持管理費にあてたり、新たに道路を造ったりするのに使うことです。要するに日本の高速道路全体で運営していることになります。東名高速道路は赤字どころか黒字のはずなのに、こうしていつまで経っても無料にならないのです。また海のど真ん中に道路を造って大赤字というのが現状です。さらに問題なのは、無料になるはずなのにETCという自動料金支払いシステムを開発・設置していることです。無料にするはずなのにお金を取るシステムって変じゃありませんか? 本当に無料にする気があるんでしょうか?

  石油公団は、石油が出るか出ないかわからないところを掘り返しているだけです。北極で1000億円以上も投入して石油発掘をしていますが、未だに1滴の石油も出ていないそうです。世界各国からは「北極から石油なんて出るわけないのに、日本は頭がおかしいんじゃないか」って思われているそうです。実際頭の悪い人が計画しているのでしょう。動力炉・核燃料開発事業団は、もんじゅのナトリウム漏れや臨界事故が仕事みたいなところです。郵便貯金や我々の年金の掛け金は、ウランをバケツで運ぶためにあるみたいです。

  特殊法人の要職には,退官官僚(いわゆる天下り官僚)が就いています。こういう人たちは関係省庁から予算をもってくる役目を担っています。もちろんこれらのお金が有意義に使われるのなら問題はありません。しかし実際には、必要のないものをつくったり、交通量が少ないところに道路を造ったり、石油が出ないところを掘ったりと、かなり杜撰な計画のもと、金をドブに捨てるような投資が行われています。これがドブに捨てられるのならまだマシですが、多くの投資したお金は返ってくる見込みがありません。つまり不良債権(民間の不良債権の倍はあるといわれています)となっています。あるいは一部の人間の懐に入っているとも言われています。要するに天下り官僚とゼネコンのふところです。こうした問題に対して、公民教育の徹底と情報公開制度の活用をすべきではないでしょうか。

  このような公務員の体質・利権を温存したまま幾ら増税してもザルに水。公務員の抜本的リストラが増税に先立つ急務です。菅さん・岡田さん・仙谷さんらは実は誰よりもその辺の事情を解っているのでしょう? 敵に媚びるのではなく、味方を増強すればよいのです。内部抗争はまさに敵の思う壺、ですよ。菅さんが豹変した後の選挙は惨敗、正気に返って浜岡原発を止めた後の支持率は上がりました。鳥越俊太郎氏が明白に指摘したように、「政治とカネ」は検察による洗脳、「消費税で財政再建」は財務省による洗脳です。民主党が取り組むべきはそのようなありもしない空理空論の“洗脳題目”ではなく、まず「官僚とカネ」「役人と税金の無駄遣い」の筈です。伸子夫人はお酒の呑み過ぎで官僚=キツネに洗脳されているのでは? 長寿番組を干されるということは、何らかの「核心的発言」をしているからでしょう。

  官僚=自民党寄りの政策が「不徳」だったという事です。国民の方向性ははっきりしており、ブレてなどいませんよ。オザワの主張を横取りして仙谷さんが断行してもよいではありませんか。小沢グループもそれなら協力せざるを得ないでしょう。民主党が原点回帰を果たしたら、国民が支持しない事がありますか? 社民・共産層も取り込み、「いいぞ、もっとやれ!」の罵声にも似たエールが飛び交う事はもう間違いありません。日本国民の世論だけでなく、世界市民の世論・潮流がそちらの方向に向かっているのだという現実を見逃さないで下さいね。

村上春樹スピーチ「非現実的な夢想家として」(毎日新聞)

  僕がこの前バルセロナを訪れたのは2年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、1時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

  ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、1日が100万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、24,000人近くが犠牲になり、そのうちの9000人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

  日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、4つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは10年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

  にもかかわらず、東京都内だけで1300万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。なぜか? あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。日本語には無常という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

  「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。どうしてか? 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

  そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

  結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

  僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった6基の原子炉のうち、少なくとも3基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。10万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

  なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

  我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも10万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

  しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という2つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

  僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。戦後の日本の歩みには2つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その2つが日本という国家の新しい指針となりました。

  広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

  そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、3ヶ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、2度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。何故そんなことになったのか? 戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう? 我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

  理由は簡単です。「効率」です。原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で3番目に原発の多い国になっていたのです。

  そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

  原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

  ロバート・オッペンハイマー博士は第2次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。「大統領、私の両手は血にまみれています」トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

  我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

  前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

  その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

  最初にも述べましたように、我々は「無常」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

  僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

  カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかし人間性は残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

  最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。
(6月10日)

  何が天災で何が人災なのか? 経済活動を打ち壊す拝金主義の発症・分岐点は何処にあるのか? これらが明快に語られている鋭い指摘です。私はアセンション(次元上昇)という言葉は二極分化を思わせるので嫌いですが、個々の偏差値に関係なく、論理的必然的に負のスパイラルの顛末が現象化しているのは間違いありません。原因から結果が生ずる、当たり前の事が当然として起きるというだけの事です。スペインのカタルーニャ州は中世から自治意識が強く、絶対王政・フランコ独裁など度重なる圧政・迫害を乗り越えて産業革命を達成し、近年では地方分権を成し遂げました。日本の旧社民連・社民党・共産党が非力かつ未熟なのは明らかですが、それにも増して市民社会・市民政治が「過激派のテロ・夢想家の精神異常」と一括りにされ、有効な政策が葬り去られている現状を、目先の経済と引換に自ら進んで受容する日本人の「日の丸=日蓮宗=一神教ガラパゴス」的体質は放射能の世界的拡散と共に糾弾・脱皮を促されて当然だと思います。その手始めとしてまず「脱原発」「脱官僚=脱増税」から始めなくてはいけません。それが共産党による一党独裁をも否定する動きである事は言うまでもありません。

米紙が論説、「日本人と原発とカネ」(共同通信社)

  5月31日付の米紙ニューヨーク・タイムズは、福島第1原発事故で原発の安全性に深刻な懸念が生じた後も、日本で草の根の大規模な反対運動が起きないのは、政府や電気事業者から支出される補助金に依存する地域構造があるからだと分析する長文の記事を掲載した。

  「日本の原発依存」という見出しの記事は、補助金や雇用が日本の原発を「揺るぎない現実」にしていると報道。松江市の島根原発を取り上げ「40年以上前に立地の話が持ち上がった時は、地元の漁村が猛反対し、中国電力は計画断念寸前に追い込まれた」と指摘。しかしその約20年後には「漁協に押された地元議会が3号機の新規建設の請願を可決した」とし、背景に公共工事による立派な施設建設や潤沢な補助金があったと伝えた。

  同紙は、補助金への依存により、漁業などの地場産業が衰退していくと報道。広島、長崎で原爆投下を経験しながら、米国のスリーマイルアイランド原発や旧ソ連のチェルノブイリ原発の事故後に欧米で起きたような反原発運動が起きなかったのは、補助金への依存が理由とした。記事は「この依存構造のせいで地元は原発に異を唱えられなくなる」とする福島大副学長の清水修二教授(地方財政論)のコメントも伝えた。
(6月2日)
  原発と創価って「反共の砦」としてカネで言論統制を敷く、そして多数の日本人が無邪気にそこへ乗っかる光景が酷似しているんですよね。幾ら資源豊かな多神教、といってもいつも卵かけゴハンばかりではなく、たまにはチーズを頬張って“欧米気分”を味わいたい? まあ日本列島の住民に原発地元民を責める資格など、これっぽっちもありません。本来地道な地方の人々をそのような生活・気分に追いやったのは他ならぬ都市部のライフスタイル・文化なのですから・・・

デッド・エンド

  10数年前、小沢一郎が自由党か新進党だった頃でしょうか、ボケーっとテレビをみてると何についての会見だったか記憶は定かではありませんが、執拗なマスコミの攻勢に小沢がとうとう激怒し、全国紙(多分、読売か朝日)の記者へ「それほどガタガタぬかすなら、オマエの社長を連れて来い! つい先週、オレの事務所にオマエの社長が、『国有地払い下げの件、(口利きを)よろしくお願いします』って、頭下げに来たばっかりだろうが!  嘘だって言うのなら、会社に帰って直接社長に訊いてみろ!」と、おおよそこんな感じでぶちかましたわけですw

  おまけに生中継だったので、そのすさまじい面罵がまんま全国放送され新聞屋の面目丸つぶれ、政治屋とマスコミの癒着まで露悪したわけです。小沢はもともと弁舌が達者でもなく、自民党幹事長時代からフィクサーの役回りで、その後も表立って政策を語るわけでもなし、何を考えてるのか、自分としてはよくわからない人物だったわけですが、この会見によって、良い悪いはともかく、桁違いの権力と胆力をもった政治家だったんだと仰天しました。実際、全国紙の社屋は、ほとんど国有地の激安払い下げ物件ですから、公権力とメディアは元から不可分でズブズブの関係にあります。日本の新聞なんてのは旧ソ連のプラウダなみに完全な報道管制が敷かれており、とんでもなく作為的に虚偽で糊塗されていると思って間違いないです。

  つうわけで、小沢一郎がとうとう資金管理団体の土地購入をめぐる騒動で強制起訴されましたな。今更って話ですが、だいたいこの程度の収支報告の記載漏れをしていた議員は与野党にいくらでもいるし、慣例的に修正申告で咎めもなかったわけですから、どんだけあからさまな国策捜査か、ってことです。法的解釈については通暁された方々が各サイト、ブログで詳しく綴ってますので、門外漢の自分の意見は割愛させて頂きます。結局、なんで官僚とマスゴミがこれほど狂乱状態で小沢を抹殺しようとするのか、先の衆院選のマニフェスト、さしずめ「小沢マニフェスト」ですな、これの草案みれば大体の事情がわかります。枢要部分を雑駁にまとめましたので、ちょっと読んでください。

 ・天下り、渡りの斡旋を全面的に禁止し国民的な観点から、行政全般を見直す。「行政刷新会議」を設置し、全ての予算や制度の精査を行い、議員の世襲と企業団体献金は禁止する。自民党長期政権の下で温存された族議員、霞が関の既得権益を一掃する。国の出先機関、直轄事業に対する地方の負担金は廃止する。

 ・特別会計、独立行政法人、公益法人をゼロベースで見直す。実質的に霞が関の天下り団体となっている公益法人は原則として廃止する。公益法人との契約関係を全面的に見直す。税金の使い途をすべて明らかにして、国民のチェックを受ける。歳入庁を創設し、年金保険料のムダづかい体質を一掃する。

  早い話、小沢のグランドデザインというのは官僚統制主義と既得権益者支配の打破、国民資産を役人が収奪する財政投融資の廃止であり、政権交代どころか、君主製から共和制へ移行するくらいドラスティックな事実上の「革命」だったわけです。エントリのおさらいですが、日本の税収なんてのは国、地方を合算しても近年70兆円少々。そのほぼ全額が公務員と特殊・公益法人等の外郭団体職員の給与、補助金と公債償還に充当され、不足分を150兆円規模の公債発行と財政投融資(郵貯、年金、簡保の流用)でまかない、特別会計360兆円(一般会計重複分を除く)という天文学的な借財を毎年積み重ねて編成するわけです。特別会計をめぐっては、新規国債分だけでなく郵貯、簡保、年金基金など国民の個人資産までもが財務省主計局を通じ、各省庁、傘下の26000余の外郭団体、3000社余のグループ企業、所管業界へ流用されるわけです。事実上、これは役人の合法的マネーロンダリングであり、天下り利権により累積した公債は1400兆円規模に膨張。教育、福祉、医療、各種行政サービスが大幅に縮減され、結果、内需不足のデフレで国民生活は疲弊の極み、ボロボロです。

  が、マニフェストで謳われた「特別会計、独立行政法人、公益法人をゼロベースで見直す。天下り、渡りの斡旋を全面的に禁止。」など役人にとってみればとんでもない話です。なんせ東大出のキャリア官僚といえども、民間の金融や外資などへ就職した同窓に比べれば40代までは下手すりゃその半分にも満たない収入です。ちなみに、駐ロシア外交官であった佐藤優さんによると、入省当時の初任給が手取りで8万円少々だったそうです。事務次官レースに敗れた同期入庁者は一斉退職が暗黙ルールである以上、官僚のライフプランは天下りが前提となっているわけです。退官後には生涯年収が数億円規模に膨れ上がり、しかも事実上の不労所得ですから、これを妨げる輩に対し、あらゆる謀議、謀略をもって潰しにかかる、ってのは官僚の防衛本能みたいなもんです。なんせ、検察、警察はもちろん裁判官、果ては国家予算の監視役を担う会計検査院の役人まで、およそ3万人ベースの天下りですから、今回の強制起訴は官僚の合従連衡、小沢のマニフェスト潰しに狂奔してるだけのことです。管内閣という「傀儡政権」を打ち立てることで天下り禁止法案を凍結し、事態は一時的に収斂できたものの、この際、完全に小沢を抹殺しておこうという腹でしょう。やってることは、官僚統制国家の総本山・旧ソ連のKGBやノーメンクラウツーラ(共産党幹部とかの特権階級)よりもえげつないです。なんせ当時のソ連ですら、検察による起訴有罪率は70%程度だったわけですから、起訴有罪率99%を越える日本の検察なんてのは事実上エスタブリッシュメントの暴力装置みたいなもんです。

  また、幾度もエントリしたとおり、新聞社と系列テレビ局のクロスメディアは総務省の許認可制度、公共電波の廉価使用と省庁の情報寡占で保護され、権益の見返りに大量の天下り役人を受け入れることにより成立するプロパガンダ組織です。早い話、マスコミそのものが官僚の出城であり下部組織ですから、官庁の意向を受け垂直統合的にいかなる虚偽、捏造報道も厭わないというのは当然なわけです。歴代検事総長が電通に天下りしている始末ですから、この国の報道、司法というものがどれほど絶望的に信用できないか、ということです。実際、連中は鳩山内閣発足当初から子供手当てや高校無償化はバラ撒きだのと叩き、予算が無いから増税不可避とか難癖をつけ、挙句に政権を簒奪しました。が、再検証するにマニフェストの目論見通り国土交通省の外郭団体を地方自治体へ移管するだけでも10兆円規模の財源が確保でき、本来なら当初目標を達成できていたわけで、マスゴミがどれだけ大衆世論を悪しき方向に扇動してるか、って話です。「政治と金の問題」よりも「報道と金の問題」を俎上に上げないかんですな。

  小沢一郎は一連の擾乱を「権力闘争だ」と言ったとのことですが、終局的に既得権益層が残された社会資本を寡占化するのか、一般国民がこれを奪還し社会格差を克服するのか、本質は「階級闘争」ではないかと・・・しかしなんとも、この国のエントロピーは激しくMAXに近づきつつあるような予感・・・ま、なるようにしか、ならんでしょw
(2010年10月5日)

  で、日本社会の革命児である小沢さんには反共の砦である創価が近づき、生命力を抜いてしまったわけです。日曜日の朝、コンビニに週刊文春が20冊前後並んでいましたw 「阿含宗を広告するとこうなるよ」1年半はこう言ってるのに、トラトラトラ!とか茶化してきたわけです。週刊新潮も読売新聞に捏造裁判で敗訴しました。週刊ポストと週刊朝日が創価シンパのようですが、今後どうなるか私の知った事ではありません。創価シンパの小沢さんの混迷・落日、創価球団楽天・ロッテの順位・・・まあいい時も悪い時もありますから、なるようにしかならんでしょ。菅さん・岡田さんも小沢さんの無実を信じていたのに、マスコミの尻馬に乗っかりオザワ切りを断行した結果、党内分裂の責任を取らされ総理退陣を余儀なくされたわけです。おもしろおかしい誇張記事ならともかく、完全な捏造報道に時間とカネをかける人もいないでしょう。私が夢想するのは「脱創価」を貫徹した「小沢主導路線」です。この観点から、日刊ゲンダイ・週刊ポストの主張には古臭さを禁じ得ません。両誌とも創価に屈服してしまっているからです。週刊朝日・サンデー毎日も同様ですね。別に他人の情実などは関係なく、必然的・機械的にそうなってしまうのです。まあ生命力の灯火が消えかかったら、あり余るゼニのチカラで何とかして下さいw 井崎先生の堅実な表予想+ジンクス重視の裏予想で資産構築? 無反省なマスゴミに政治を批判する資格なし。だからこそ保守と結託して消費者たる庶民を叩く誌面になるのです。で、売上下がって、デッド・エンド。

「原発は一神教」(週刊ポスト)

   「大津波と原発」中沢新一 他共著(朝日新聞出版)書評・香山リカ

  大震災発生以来、私たちはどうしても、その日その日の情報を追いかけてすごしてきた。しかし、今こそ必要なのは“大ぶりの話”、つまり文明史的な観点から今回の未曽有の災害や原発問題を語ること。そんな主旨で、一筋縄ではいかない論客3人が集まった。そう厚くはない一冊だが、今後の日本を考える上で重要なキーワードがちりばめられている。たとえば、「原発は日本における一神教」というワード。中沢氏は、「決定的に今までのものとは構造が異なって」いるにもかかわらず、深くその原理や意味などが考えられることもなく、大量生産、大量消費を至上命題とする経済と結びついてとにかく「やみくもに推進」されてきた原発こそ、日本にかつてなかった一神教なのではないか、と発言する。

  だとしたら、それは神仏習合、なんでもアリでやって来た日本にとっては、そもそもきわめてなじみにくい存在だったはずだ。中沢氏の発言を受けて内田氏はこう言う。「一神教的な遠い神に弱いんだよ、日本人は。荒ぶる神を鎮める方法を知らないんだ」。だから原発事故はいつまでも収束しない、というのは飛躍がありすぎかもしれないが、たしかに不可侵の大聖堂さながらの原発に近づけず、周辺から水をかけたり取水口におがくずを詰めたりしている私たちの姿は、唯一神の出現に戸惑う民のようにも思える。

  なんだ、現実離れの文化論か、と鼻白むなかれ。座談会の後半で、中沢氏はこれまでのエネルギー革命や農業政策、エコロジー思想などを超えた「エネルゴロジー」を提唱し、それを実現するために「日本版・緑の党」を発足させたい、と語る。これはネットでも「中沢新一、政党立ち上げか」などとかなり大きな話題となったので、目にした人も多いだろう。興奮する内田氏が、党のヴィジョンをきくと、中沢氏は「まあお待ちください。そのうち宣言と綱領が出ます」と前向きともあいまいともつかない答えを返す。本気で期待しています!
(6月6日)

  私の世代は中沢先生の「野うさぎの走り」や加藤周一先生を読まされ、朝日新聞の過労死とゆとり社会の社説、また散歩・瞑想等の無目的・無為の時間の必要性などの文章を何度も要約・感想・小論文などを書かされたクチでしたが、劣等生の私には何がなんだかサッパリわかりませんでしたw 康夫ちゃんは勿論、中沢先生、香山先生、五木先生、姜先生らには引き続き今後の日本に向けて新しい価値観、人間サイズの哲学、そして希望を強く提唱してもらいたいものですね。

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時示郎

Author:時示郎
宗教批判を切り口に政治社会を眺める素人のつぶやきです。東日本大震災の被災者の皆さまには謹んでお見舞いを申し上げます。


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