ルミガン効果
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財務官僚、増税画策のためのデタラメ二枚舌(日刊ゲンダイ)

  20日のNHKの日曜討論を見た国民は耳を疑ったのではないか。国民新党の亀井亜紀子参院議員が、財政危機を煽る財務官僚の大ウソを暴露したのだ。国民新党はデフレ経済脱却のために建設国債や無利子非課税国債の発行など積極的な財政出動を提唱している。亀井議員が明かしたのは、この無利子非課税国債をめぐる財務省側とのやりとりだ。番組での発言の中身はざっとこんな感じだった。「財務省と(無利子非課税国債発行について)やりあったら、財務省は『そんなものを出したら日本の財政は大変だと海外に思われる。いま国債は安定的に償還されてるので必要ない』と言われた。『え? 日本は財政危機じゃないんですか』と聞いたら『大丈夫です』と。(財務省は)国民に言ってることと与党に言ってることが違うんです」

  ビックリではないか。亀井議員の発言通りなら、財務省やスッカラ菅首相が騒いでいる「財政危機だから消費税増税だ」という理屈はやはりデタラメだったということだ。「国民新党の考え方は、内需拡大のために市場にカネが回る仕組みが必要というもので、別に無利子非課税国債の発行にこだわっているのではありません。この方法がダメなら、財務省も代案を出してほしいと何度もやりとりしているのですが、財務省側はいつもノラリクラリごまかしてきたのです」(事情通)改めて亀井議員に発言の真意を聞いてみた。「財務省は最初から消費税ありきなのです。無利子非課税国債を発行して困る人はいません。にもかかわらず、提案しても話が進まない。それで党に財務官僚を呼び、日本の財政状況について平時なのか非常時なのか聞いたら『平時です』と答えたのです。そもそも財務省は、海外に対しては『日本は対外金融資産が豊富で、国債の9割以上は国内で保有しているから財政危機ではない』と説明しているのに、国民に対しては『900兆円もの借金で大変だ』と言う。海外と国民に対する説明が違うのです」相手によって主張を180度変える二枚舌の財務官僚。次はぜひ国会で追及してほしい。
(2月21日)

  消費税増税は必要なし。大企業は法人税など現に払っていない。特別会計を切り崩し、国民生活の復興に充当すべきである。官僚・公務員は給与削減と共にそれでも国家国民のために働く人材に一新すべきである。「それなりの給料を貰わなくっちゃ働けないヨ~」と嘯く公務員天国の官僚の眼には多くの国民が「失敗者たる奴隷」としてしか映っていないのだ。
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ポスト現代時評

小沢新党は決起するか?(サンデー毎日)

  新会派は全員、前回衆院選で単独比例で当選したメンバーです。我々が活動できるのは、前回衆院選で「民主党」と投票用紙に書いて下さった3300万人以上の有権者のおかげなのです。では何故それだけの人が投票してくれたのかといえば、有権者が自民党支配からの脱却を望んだ事は勿論ですが、前回衆院選マニフェスト(政権公約)が基本にあった。ところが菅内閣はマニフェストとは真逆。消費税は「衆院議員任期の4年間は議論しない」と約束したのに、党内議論もなく打ち出され昨年の参院選で大惨敗を喫しました。1月の定期党大会では同志が質問のために挙手しても無視。自由な言論を標榜する党の現状は北朝鮮と同じですよ。そこで国民との約束を守るための受け皿作りに動いたわけです。新会派の結成は離婚じゃなくて同じ旗の下での家庭内別居みたいなもの。いきなり離婚届を突きつけられるよりはマシでしょ?w 2世帯住宅だと思って下さいよ。喧嘩はしますが住宅(民主党)そのものは守っていく。自民党には総務会があって活発な議論が行われます。ところが民主党にはそんな場がなく、いきなり「天の声」が降ってくる。我々は単なる起立要員なのか!総辞職して民主党がマニフェストの原点に立ち返り、人事を含めた真の挙党一致を目指すのなら我々の動きも収束に向かう。しかし逆に解散・総選挙に踏み切るなら新党結成です。菅さんはそのまま「増税民主党」で行けばいいし、我々は河村さんらと連携して「減税民主党」で行く。約束を守る「減税民主党」と約束を守らない「増税民主党」との闘いだ。どちらがいいのか国民に選んで貰います。対立軸は極めて明快です。加えて我々は1年生とはいえ、政界全体を見渡して行動している。ある大物政治家(亀井静香・国民新党党首か?)と連携していますし、みんなの党にも理解者はいます。自民党だって谷垣派(宏池会)は小沢さんの恩師・田中角栄元首相以来、小沢グループとは友好関係。いま総選挙をしても、現在の民主党も自民党も過半数に届かず、みんなの党も大躍進とまではいかない。となると、おのずと政界再編です。我々が受け皿を作っておけば、いざという時「どうぞ小沢さん」と迎えることもできる。新党を作ってしまえば党員資格停止処分なんて関係ない。堂々と「小沢首相」を狙える。

  菅は独裁者だな。昨年9月の代表選後、彼は「ノーサイド」「412人内閣」を口にしたが、消費税増税もTPP参加の是非も、ある日突然何の相談もなしに宣言した。「嘘つき民主党」といわれても仕方がないことを菅代表自らやっている。党員資格停止処分を受けるべきは小沢さんではなく菅の方だよ。政治家には国民との約束を守るという暗黙の服務規定がある筈で、菅の場合はもはや人間性の問題だな。常任幹事会は原則として全会一致の筈なのに、有無を言わさず多数決で処分を決めたのはルール違反だよ。菅は表向き、口では「ひとつのけじめ」と言っているが、裏では菅が辞めた時に行われる次期代表選に小沢さんが出馬できないようにする意図がある。仙谷が考えそうな姑息な手段だ。93年の宮沢内閣に似ているな。野党側が菅内閣不信任案を提出すれば小沢グループが賛成する可能性は充分にある。俺たちは03年の「民由合併」後の党の本流、つまり正規軍だ。旧小沢自由党の力がなければ政権交代はなかった。労組や世論頼みだった旧民主党に新たな保守層を呼び込んだ。離党しなきゃいけないのは菅たち(執行部)だよ。ただ彼は何をするか解らないし、やぶれかぶれ解散をするかも知れない。さっき話題に出た大物政治家(亀井氏?)は小沢グループと自民党の反谷垣勢力との接着剤になろうとしている可能性がある。菅たち(執行部)は「解散・総選挙で落選するのが怖いから、最後まで抵抗できない」と見くびっているが、中間派にも「菅ではダメだ」という空気が広がっている。小沢グループはやる時はやる。民主党のためじゃない、国家・国民のために生活を破壊する菅内閣を断じて許さないよ。
(抜粋、3月6日号)

  菅執行部に造反した16人は正論ですが、アメリカ・経団連・自民党・創価学会・官僚公務員・マスコミの悪辣さの前にはバカ正直なお人よし、コドモ地味た浅薄さ、戦略の無さを禁じ得ません。小沢さんもここまで来たら「剛腕」の称号の前に胡坐をかいている余裕は無い筈です。「次々」と期待を煽るばかりではキツネのような詐欺と指弾されても当然です。日本の国力はもう後がありません。結局無能不徳でも危機感を強く持った既存勢力の方が強いのです。彼らは詭弁によって民衆を一時的に安堵鎮静化させる操作術に長けていますから、悪しき特権階級の増長は止みません。然るに社会=国民生活の崩壊は促進されるばかりです。民主党政権を煽っておいて民主党政権を潰す朝日新聞・テレビ朝日は自社利権のために国民生活を悪戯に振り回すマッチ・ポンプ(放火と消火の自作自演)との汚名を免れられません。小沢さんも亀井さんも創価学会の力を当てにしていては現在の自縛状態が深まるばかりという事実をもっと深く痛感された方がよいでしょう。まだまだ事態の認識が甘すぎますね。
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ポスト現代時評

亀井静香の提言(日刊ゲンダイ)

  TPPだとか消費税だとか、できもせんことに前のめりになって。財源が足りないから増税なんて、バカなことを言っちゃいかん。こんな不景気で増税なんてしてごらんなさい。国民生活は破綻しますよ。菅政権がやろうとしているのは、井戸に水がないのに、どうやって釣瓶でくみ上げるか思案しているようなもの。井戸水があふれれば、釣瓶をたくさん垂らす必要もない。まずは、経済を成長させることです。財源がないと言いながら、法人税は5%引き下げるというのも、おかしな話。その分が大企業の内部留保に回るんじゃあ意味がない。雇用や設備投資に回すなら法人税を引き下げますよと、そこは条件付きにしないと。「それがイヤなら法人税率をもっと上げるぞ」と言えばいいんです。社会に還元せずに、ため込んでいるカネには課税したっていい。大企業の内部留保は約300兆円。その1割でも吐き出させれば、30兆円の財源が生まれるんだから。富裕層の預金だって、税をかけて召し上げないまでも、無利子国債の形で借りる手はある。増税しなくても、知恵を絞れば財源なんていくらでも出てくるんだ。財政出動にしても、やらないに越したことはないけれど、民間に力がない時は政府支出で需要を喚起するしかない。首相にも、そう言ってるんだけどね。
 
  財務省の手を離れることが政治主導の神髄なのに、政府の脳みそを自公政権に戻しちゃうんだから。予算編成も財務省に丸投げで、総額が決まってからじゃ国民新党としてやれることも少ない。それでも、ガードレールを木製にするとか、電線を地中化するとか、なんとか中小企業にカネが落ちるような予算はつけるようにしたけど、財務省や国交省の猛反発に遭った。本来はね、財務省なんてのは単なる経理係で、事業部長は政治家なんです。財務省の役人が考えているのは、せいぜい二次方程式でしかない。経済ってのは人間の営みなんだ。理論だけじゃダメ。数字とにらめっこしても、経済の実態は分からない。財務省の勝栄二郎次官には、「明治維新の立役者になった勝海舟の子孫だか知らんが、あんたは消費税アップで日本を崩壊させた張本人として歴史に名を残さないように」とクギを刺したんです。民主党政権が国民に約束をしたことをやろうともしないで、自公政権に逆戻りするようじゃ、有権者からすれば「話が違う」となるのは当たり前。こんな政治状況が続いたら、日本は潰れちゃう。その辺は、小沢さんとも鳩山由紀夫さんとも、認識が一致してます。本当は、大衆の蜂起で世の中が変わっていくことが望ましいんだけど、今の日本は自分のことしか考えられない輩が多いから、大きなうねりは期待できないかもしれないね。挙国一致の救国内閣を樹立するしかないかもしらん。どのみち、こんな政治は長く続きやしませんよ。
(2月10日、抜粋)

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ポスト現代時評

洗脳似非宗教、阿含宗の欺瞞(織田隆弘「加持の力」より)

  ・・・例えば、桐山密教・阿含宗というのがありますが、この人の著書を見ますと、いかにも摩訶不思議なことができるように書いてあります。しかしあれは偽者であって、そういう摩訶不思議なことができるものでもないし、本当のインチキです。私は桐山の本を見たとき、これはインチキだと思い、高野山真言宗内に警告を発して注意を喚起しました。その結果、高野山大学の教授で桐山が主宰する「月刊密教講座」の執筆陣に参加していた方々は、皆驚いてその執筆を中止してしまったわけです。彼の本を注意して読みますと、専門家ならそれがインチキである事、正統密教ではなく似非密教・疑似密教であることがすぐ解るのですが、一般の方、特に正統密教の何たるかをご存知でない方には、「桐山大僧正はどんなことでもできる、密教的大神秘主義(オカルト)だ、奇跡を行える聖者だ」と、すぐ過信・妄信してしまう。これは桐山独特の文章の魔術に引っかかってしまうからなんです。特に若い学生諸君に、引っかかる人が多いのは困りものです。

  桐山教団だけではありません。ただ金儲けのための事業としてやっている宗教が余りにも多い。この種の新興宗教教団は、宗教本来の目的である衆生済度に力を尽くすというよりも、いかにして信者を増やそうかと、入信者の尻を叩いたり、教団内の地位という餌を与えたり、脅かしたり賺したりいろいろ方策を巡らしています。しかし本当に人を救うためには、救う立場に立つものが本当に真心をこめて懺悔して、仏さまに触れ、仏と入我我入し、仏さまのありがたさが本当に実感でき、そこで初めて化他の行(他人さまを助けようとする事)ができるのです。言い換えるならば、まず自分が悟らなければ人は救えないという事です。創価学会の例を見ますと、一頃の布教の仕方は「他の宗教は皆邪教なんだから、神棚でも仏壇でも踏みつけ火を点けて焼き払え」と教えていました。こんな凄まじい事が平気でやれるほどに他の宗教は邪教だという事を信者の頭に叩き込む。それがあの教団の目標の一つであったのです。そういう乱暴なやり方で洗脳されて、悟りを得た人、苦悩から救われた人があったかというと、それはいない。
(抜粋、一部改変)

  真言宗の僧侶、お坊さまと一口にいっても、教理教学に強い学者肌の碩学教授、祈祷に秀でる職人肌の修法師、または市民のよき相談相手となり、地域の心の支えとして慕われる好々爺の和尚さま等、その活動分野は様々です。学者・祈祷師・カウンセラーなど、僧侶の多様な活動を承認しているのが真言宗の懐の深さです。この四谷密門会の織田大僧正は修法家・事相家としての視点・良識から阿含宗・創価学会らは危険な教団だと判断、警告されたのでしょう。新興宗教の著作は既存の宗教学者・仏教研究家の著作が引用されて(盗用されて)いるのですが、盗用された当の学者先生方は「私の学説が新興宗教にも認められた!」と考えて教団の会報への執筆や集会での講演依頼などを引き受けてしまいます。そこで自説を採用してくれた教祖を「仏教教理に造詣が深く、仏教の現代興隆への貢献を称えます」とギャラも通常より高額なのでしょう、ついヨイショして持ち上げてしまいますから読者・聴衆の会員も、大学教授の肩書から教祖のパワーへの信憑性をますます強めてしまうのです。インチキ宗教と雖も、布教の源泉である教団出版物には、特に教団のメジャー化の過程においてはおバカで傲慢丸出しな事は書けません、注意して読めばその兆候は散見しているのですが。「あなたの陽の当たらない人生に光を当てる!」というさりげない浪花節、万人に潜む隠れた自尊心へのサービス提供が新興宗教の商品です。でも気持ちよさの代償は高く付き、その結果「高い授業料をとられた~w」の洒落だけでは済まない顛末も多々あるのが現状です。良識ある碩学や温情厚い善男善女が何故騙されるのでしょうか。

・・・しかるに後世になって密教が絶対他力であることを忘れたのか、観想に打ち込んだけれどもその観想がなかなか成就しないので、いろいろな亜流密教が出てくるようになった。
  
  その一つにヨーガが密教の源だといって、ヨーガ術を密教より大切に考えて念力行者になってしまった人もある。もしそれで三昧現成して、所謂仏さまになった方があったとすればそれもよいでしょう。でもそういう人はいなかったのです。浄らかな境涯にも入らないのにお加持をするから、おかしな念力を使うようになってしまった。念力を使ってでもある程度の事はできます。これは今日の心理学の方でも証明されている事です。ですから私は念力では何もできないとは言いません。しかしそれはお大師さまの説かれた本当の密教ではないと信ずるのであります。つまり悟りと関係がない術なのです。桐山密教―これは素人でも訓練の仕方によっては超能力が付くかのように思わせぶりを書いて、さも自分もある修法(念力の護摩)をやったかの如く上手に書いて売り物にしている、とんでもないことです。蝋燭の火を龍の形にするとかお不動さまの形にする等、こういう現象をすべて否定する事はいけない。そういうちょっと不思議な働きをする自然霊がいるのです。でもそれは低級な自然霊の働きであって、人間の念力ではない。これらを仏さまや菩薩さま、正神の顕現と勘違いをしやすいのです。
(同)

  まず私の卑見仮説では、悟りとは「人生の苦悶を軽減するためには、自我・霊魂に付随する特権意識(への期待)を否定・払拭して、自我を認めた生活をする事」と解釈します。当然より高度で深い境地は予想されますが、とりあえずはこれで四諦・八正道への手掛りはつかめると思うのです。従ってどんなに修行しても「仏」や「法華」等の概念を「我執」や「特権」の代名詞として用いる限り、仏教としては無意味であり、かえって害悪だという事になります。読者の方々のお考えは如何でしょうか。

  さて以上の考えから「我執に依存した念力」の行使は真理(自然法則)に逆らって不幸・自滅するという考えが生まれてきます。阿含宗・創価学会等の新興宗教の特徴は「この教団は他とは異なる特別な教団であり、それを主宰する教祖は因果応報の制約を受けない特別な人間で、教祖に連なる会員は特別な人間なのだ、各自の超能力・霊能力の強さによって教団の功徳が示されるから、能力強化には教団に無償奉仕し、お布施を供養し、教団内で出世して位階をもらうことだ、そのためには自分のダウン(後続会員)を勧誘するのだ、そいつの功徳を上に吸い上げるのだから」というものです。こうして新興宗教会員は仏法と正反対の我執を悪戯に強化して行くのです。現代の自由主義社会ではその態度がうまく行くケースもあるでしょう。しかし大概の場合上手く行くのは短期間だけで、後はその短い成功の反動(リバウンド)としての人心の乖離、社会的信用の失墜による借金・窮乏、怨霊・魔霊を願望実現に利用した代償としての治療不能の難病発症や頓死・・・等の悲惨な末路が待っています。四谷密門会は長年桐山密教の欺瞞と虚偽性、危険性を指摘して現在はその啓蒙活動の役割は一通り果たし終えたと自認しています。しかし一方で窮した阿含宗は戦没者慰霊を盾に落ち目の自民党にすり寄り新自由主義を礼賛、桐山密教を糾弾していた週刊新潮もアンチ創価の立場から阿含の星まつりの提灯記事を毎年掲載するような体たらくです。桐山さんは「密教占星術Ⅰ」で「立正佼成会・庭野教祖の『仏法を交通法規のように遵守せよ』との立場には賛同できない、私は創価学会・池田大作の『因縁によって悪を行わざるを得ない人間』という立場に共感する」という旨の文章を著しています。交通ルールを守るのは誰だって窮屈に感じます。不要の場所も正直あるでしょう。しかし大混雑する都会の交差点や高速道路で大勢が「感情の起伏でやむにやまれず」交通法規無視の運転を始めたらどうなりますか?「生き残った奴は勝者、死んだ奴はアホな敗者」で済ませる気なのでしょうか、まさに我執に耽溺した浅薄皮相な考えといわざるを得ません。

  阿含経の講義でも二言目にはすぐ「私は最終解脱した特別な聖者だから解っている、だけど君たちには解らない」と我執丸出しで有耶無耶にお茶を濁します。釈迦は一人称を「この特別な俺様が」ではなく「我々は」と法を説いたのです。そこまで我執に対する意識が消滅しているのです。だから我執に伴う苦悶も無い。これは我慢・辛抱とは違う次元です。阿含宗で成績がいい人は、実際桐山さんを含めて他所の宗教で修行して来た人間ばかりです。阿含宗しか知らない生え抜きの会員は行き場も居場所も失くし、呆然と佇んでいるのが現状です。阿含の星まつり、UHFで全国に中継されると思いますが、そのテレビ中継ですらなるべく見ないことをお勧めします。キャンプファイヤーの周囲に目には見えない無数の怨霊群がたかり、心的波長の加減によっては参拝者・視聴者にその怨霊が“通り魔的に”憑依してしまう可能性があるからです。「心霊写真を見てたら不幸になった~」ケースと同じです。阿含の星まつりに10年以上通い続け、「何もいいことなかったよ、最近はますます貧乏になった」と涙している人が沢山いるのです。しかも驚くべき事にその当人は周囲からの強引な説得の結果、また関東から京都へ旅費をかけて出て行き、キャンプファイヤーを絶望的な思いで見つめているのです。・・・これはご本人にも問題があると思いますが、そのような人たちの集団・集合だということです。上記から共通するのは尤もらしい表層的な教義・広告に惑わされ、霊的な汚染・欺瞞性に洗脳され無頓着であるという事です。

  以前ご高齢の大峰山の先達行者の先生に電話で相談をした事がありました。その行者先生は電話口でいきなり私の長年に及ぶ問題の原因とその解決法(方災・方位除けをするということ)をズバリ答えたのです。私は内心そうではないかと薄々は感じていましたが、その確証も得られませんでした。行者先生の気さくですが経験と知識に満ちた話は延々30分程度続き、修験道の話、修行の話になり、「いまは修行ブームで夏場は大忙し、学校や職場でキレてしまう心の弱い人が大峰修行で沢山よくなっているよ」というのです。そこで阿含宗の名前が出ました。私が知っていると答えると、「阿含宗?あれは修験道を取り入れたいい宗教だよ、うちにも阿含宗の会員さんが来ているよ、皆熱心でいい人だよ」と言うのです。私は内心「こんな本場のベテラン専門家も認める本格的な教団なのかな」と思いました。しかし話が相談申込書の送付に及ぶと、言葉の行き違いがあったのか、何か誤解をされたのか、いきなり「俺を年寄りだと思ってバカにするな!」と物凄い早さ・剣幕で愚痴を言い(聞き取り不明)、慌てるこちらの謝罪も聞かずに一方的に電話を切ってしまわれたのです。私は行者先生の霊視力や親身な人間性に感嘆していたので、非常に唐突な印象を受け呆然としました。そこで私は「教義や組織はともかく、阿含宗の霊的な側面を肯定してはいけない、たとえ本場のベテラン行者であっても」と肝に銘じたものです。大峰修験のまともな神仏が阿含宗の姦詐・欺瞞の霊質を察知して嫌っているのでは?とも考えたものです。

  現在教団は戦没者慰霊によって靖国神社へ黒塗りの車で参拝する新たな会員層を開拓しているようです。阿含の星まつりに参加する予定の皆さん、それでもよろしかったら是非どうぞ。ちなみに私は川崎大師の星供養で早くも幸運が舞い込んでいます。お釈迦さまや弘法大師も「お布施が少ないから説法しない!祈祷もしない!」と癇癪を起こして不貞腐れたでしょうか?愛人問題で訴訟沙汰を起こし、美食と謀略のやり過ぎで脳梗塞・脳腫瘍(!!)を発症し、それでもなお反省の色無く、評判・勲章・利権等、俗世に執着し続ける姿が大聖者にふさわしいものでしょうか?そこにはお釈迦さまや弘法大師が人生を懸けて示した「人徳」の二文字は見る影もありません。中山忠光大日本皇道立教会を調べてみて下さい。阿含宗が創価学会や国家主義と因縁浅からぬ関係である事が解る筈です。照真秘流や新興宗教たる真言宗金剛院派からして眉唾ものでしょう。創立当初から宗教法人の優遇税制を目当てにしたインチキ・イカサマ商売です。似非霊能によるマッチ・ポンプ(放火と消火の自作自演)現象に目を眩ませられてはなりません。一見尤もらしい営業活動の端々にどこか非常識な違和感、胡散臭い自己矛盾が蔓延しています。山科警察署、京都税務署は手をこまねいている場合ではありません。霊的被害の他に、明白な違法行為や訴訟沙汰も数多く引き起こしている今後要注意の宗教団体です。南無大師遍照金剛
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仏法探究!

「自分は他人」~クリシュナムルティを読む

  私の要点は、何故「私」「ミー」「あなた」は経験をし、しかも最高のもの、幸福、恍惚感、法悦境、平安を約束する経験を求めるのかという事です。(それは)明らかに、「現状では不充分だ」と感ずるからです。それがすべてです。それがすべてなのです。何の平安も無い状態にいるので、我々は絶対的、恒久的な永遠の和平の状態を経験しようと欣うのです。私は不幸で惨めで哀しみに打ちひし枯れている。そこで私は何の哀しみも無い何かの境地を経験したい。それは私の切望です。私には理想・目標があり、それを目指して努力する事によって私は最終的にそれに至るだろう。私はそれを切望している。私はそれを体験し、それにすがりつきたい。利口ぶった物言いや発言は別にして、それが人間の切望なのです。さて、もし私の精神がこの苦悶から自由になれば、至高者=神の経験を求める必要が何処にあるでしょうか?その必要は無い筈です。それはもはやそれ自身の条件付けに囚われておらず、それ故何か別のものに成っており、異次元に生きているのです。従って、最高のものを体験しようとする願望は“本質的に”間違っているのです。(クリシュナムルティ「私は何も信じない」より抜粋)


  瞑想とは何らかのイメージなり心象なりを俯瞰する作業(宗教的修行)です。しかしこの行為の前提として自明であるところの、「俯瞰する我在り」という意識、これは果して本当の事実なのでしょうか?我々の身体、そして心も突き詰めれば両親や他者から譲り受けたものであり、「特権を有する自己」などは幻想ではないかとさえ思えて来ます。我々は生きたいから生きているのではなく、「生まれたから生きている」のです。そして我々を生んだのは「他者」である親です。そして生きる上で、我々は情報にしろ食物にしろ、心身ともに「他者」を取り入れなければ生きていけないのです。当然我が心は刻々と変わり、我が身は新陳代謝を繰り返します。我々の心身が宇宙自然現象の一部だとしたら、その一体何処に「特権的な自己」なるものが存在するのでしょうか?このように考えてから瞑想という行為を省みれば、私(当事者)がイメージを俯瞰する時、私(当事者)とイメージ存在には能動-受動のような上下関係はなく、要は自己存在が他者存在と同等ではないか、ということです。「重々帝網なるを即身と名付く」我々の心身、行為、イメージまでもが土や火、水のような宇宙の自然現象、連鎖反応の一部であり、そこには感覚的に想定される「君臨者」「俯瞰者」「操作者」というものはなく、自己から「特権的自我」という想定を外して生きればより自由かつ規律正しくなれるという可能性を示唆していると思われます。

  私にとって他者・他人とは当人の意識に関係なく「見られるもの」であり、一般市民からすればとりあえず「尊重される(べき)もの」であり、さりとて余りその「労苦に頓着しないもの」ではないでしょうか。知人や隣人が出産・病気・老化・死亡した時、その時はさも驚いた素振りは見せても、内心の本音は「ああ、そう」位の人間が大半でしょうw これが自分の身に起きたらどうですか。出産・老化・病気・死亡・・・これらは「他人に起これば」ただの自然現象です。しかし自分の身に起こったら・・・まだ起こってなくても「ああ、どうしよう」と内心悶々と苦悩を重ね、「できたら逃げたい、何とか上手く避ける方法ないかな~」なんて思うのが正直な人情でしょう。逆に他人事なら「そんなにくよくよ悩むなよ~」と忠告しやすいものです。釈迦は病気や柔弱、老死自体を問題にしたのではありません。それによって「本人の精神に苦悶が生ずること」を問題にしたのです。それは「我在り」の意識という「錯覚」が原因ですから、自分が他人と同じ「無我」的な存在と知れば、人生に付きまとう苦悶が軽減される、と説いたのではないでしょうか。

  親鸞の「絶対他力」もそういうことではないですか。すなわち、自己を他者のように「見られる存在」であり、「尊重されるべき存在」であり、「余り労苦に頓着しない存在」として扱い生きられたら苦悩が減る、すなわち「往生する」ということ。善悪の問題もその行為や目的もさることながら、そこに「我在り」という意識が希薄か濃厚かで大きく違って来ると思います。「密教は釈迦の思想を忘れてはいない」というのは安易です。しかし密教の修行に入る前に何故私は密教をやるのか、密教の力で何をやりたいのかという事をよくよく自分に問い質さない限り、「凡聖不二」の教えの前に劣等感と誇大妄想の自己分裂をさらけ出し、“粗悪品の瞬間接着剤”の如き似非霊能による大人の狐狗狸さん遊戯に陥る可能性を否定できないのではないでしょうか?「潜在意識下における第七末那識、これが煩悩の源泉だ」と語る傍から「この偉大なる尊い霊能力を授かった我々は神仏に見込まれた、世界を救うために選ばれた特別な人間なのだ!」と叫ぶ新興宗教の会員たち、彼らのエキセントリックな自己撞着にはもう付いていけません。
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