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化身

2015.01.02(00:28)

  ちょっと頭のおかしいことを書きますが、私はよく桐山さんや真如苑の伊藤苑主の化身と遭遇します。桐山さんの化身は2種あって、1人は現在の老いたご本人、もう1人は星まつりポスター写真の昭和末期の初老ながらオールバックで精悍な桐山さん、こちらの方が圧倒的に多いのです。スポット派遣で倉庫で働いていると、ある男性と知り合いになりました。相互に手伝い合って仕事を済ませます。帰りのバスの中、その男性が私の隣に座ってきました。たわいない会話を交わすうち、話題がいきなり記憶術w無愛想な私も苦笑を抑えるのに必死でした。何故か電話番号を交換し、後日新たな仕事を紹介してくれましたが断りました。きちんとした実在の人物なのですが、私は彼を桐山さんの化身と思っています。真如苑の真砂子継主(苑主)、さらに真乗教主の化身も時々現れます。髪形とか眼鏡などで判断するのですが・・・阿含宗の職員や先達の化身は在籍当時からですね。もう退会してしばらく経つから止めてほしいのですが・・・最近Yさんという苗字が周辺に頻出します。この方が阿含宗なのか創価学会なのかはよく解りません。私に透視霊能は必要ないのです。向こうから3次元的に化身をとって近づいて来るのですから・・・いきなり豹変するんですよ、もう気にもしませんが。(2013年1月14日)
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のどかさは交通安全の大敵?

2015.01.02(00:25)

  これは守秘義務に抵触しないと思うので書きますが、交通事故というものは意外と危険な状況では起こらないものなんです。渋滞中の複雑な交差点ではドライバー皆眉間に皺寄せてるし、乱暴な運転も信号無視もありますが、大事故に繋がるイメージは少ないものです。むしろ事故が起こるのは事故の原因がまず見当たらない平和な雰囲気、交通量の少ないところ。つい気持ちが大きくなって猛スピードで吹かしてみたりするのです。で歩行者も同様に気持ちが大きくなって油断しているのです。この両者がかち合うと起こる筈のない事故が起こってしまうわけで、油断大敵の箴言通り怨霊の侵入を招いてしまうのかも知れません。俗にいう「魔が射す」という奴ですね。(2013年1月14日)

密教と日蓮

2015.01.02(00:23)

  真言宗を信じる不勉強な素人として、また真如苑や阿含宗の説明、またはネット上の批判掲示板を眺めて感じるのが、①釈迦の阿含②密教の祈祷③神仏習合、これら3つがうまく並立しない、ということですね。①の釈迦は原因結果のサイクル、②は神仏を召喚した祈り、③はですね、これは本地垂迹とかその逆とかありますが、卑見ではこれ自然霊で同じだと思います。拝んでて日輪がパーッと射して来た時に、そこに大日如来を感ずるか、天照皇大神を感ずるかは信教の違いだと思います。それでも太陽の射し方に違いはあると思いますが、結局太陽光線である事に相違ないわけでしょうwただそこに自然霊という仲立ちをお呼びする、ということだと思います。神というのは杜のことですなわち「聖域」が原義らしいですから、ここから端的に「大自然の威力」ということでしょう。この自然崇拝と、空海の六大が関係してくるわけで、カルマの浄化ということを考えると、神仏を拝んだり、社会福祉に精励することで運命を好転させる=自分のカルマを神仏に同調させる、協調させるという意味で上記の①三密加持②四曼荼羅③六大無碍に通じてくると思います。ただ釈迦は祈りを否定し「すべては因縁だから仕方がない」という立場なんですね。しかしそれでは宗教にすがって来る困窮者の問題解決にならないので神仏に祈る、基督教などを模した大乗仏教が立ち上がってきたわけで、「仏教真理が難解でもとにかく仏神に祈れ、釈迦も天啓で悟ったに違いない」となって来たのだと思います。

  釈迦自身「因果関係は複雑微妙で難解だ」そう単純なものではないと告白している筈です。日蓮宗はこの複雑微妙な密教教義を整然としたのですが、教義では元ネタの本家を否定しても、拝んだ時には事実上エネルギーをそこから引いて来て日蓮曼荼羅経由で授かるのであろうから、信者以外が既成の神仏を普通に拝んで何が悪いの、どの宗派でもウチが一番よそはダメというでしょう、となってくるのです。日蓮曼荼羅の功徳というのは非常においしい魅力があり、実際そういう事例も多いでしょうが、釈迦の教えは場面場面で一喜一憂するのではなく因果のサイクルで考えなよ、と諭しているわけで日蓮宗信者の人生を長期的な視野で俯瞰した場合、果しておいしい場面だけなのかと問えばここは疑問なわけです。真摯な日蓮宗の方には失笑無礼な内容なのは承知ですが、やはり「出世の本懐」という出だし、仏教信者は出家隠棲するという古代から現在までも続く宗教者の苦悩という動機に日蓮宗は果してどこまで応えているのでしょうか。仏教を広く世に出すのと仏教を出世や金儲けの手段にするのとでは違うでしょう。これまでの歴史的経緯を見る限り、個人的にはやはり日蓮曼荼羅の示す功徳は「虚妄分別」「他者への寄生」「エゴの助長」に繋がってしまうのかな、と感じます。そうでない日蓮宗信者の方がたくさんいるのも事実ですが、こういう人が目立ちますね。日蓮本人は神社参詣も探究し密教修行も本家で勉強しているんですから、一切の神仏を棄てて日蓮曼荼羅一本というのは迷いこそ払われても、思考停止の危うさを孕みます。(2013年1月14日)

パワーと怨念

2015.01.02(00:21)

  まあ普通の人があこがれる超常能力、神通力といえばやはり読心・透視と念動力、この2つではないだろうか。新興宗教の修行、ヒーリングのパワー伝授、或いは大組織のオーラなどによってこのパワーが授かる人がいるのかも知れないが、その実効範囲は限定的である場合が多い。ところが不可思議な能力である故に、当人は無限の可能性を妄信してそこに踏み出してしまうパターンも多い。勿論どこかで従来の範囲に引き戻されるわけである。もう一点、こうしたパワーを恣意的に濫用する事で周囲の怨念を集めてしまうことも往々にしてある。これこそまさに実はパワーを得た時点から因縁の歯車が発動しているように思えるのであるが、周囲の怨念の度合いがある臨界点を超えると当人の運気が状態変化するわけだ。その結果運気が好転したりドボンしたりするわけである。世の中には本当にいろんな教えがあり、思えばその通りになるというのは先述したアストラル世界を考慮すればある意味当然なのであるが、同時に周囲の怨念も叶い易くなっている筈で、不可思議なパワーを行使できる反面、他人の思いの影響に過敏に反応したり、勿論怨霊の侵入を招いたりして普通にやった方が早道なんじゃないの、という顛末になることが多い。ちょっと怪しい霊能者でも相談者・依頼者に無断でその内容を当人を特定した上で他人に吹聴したりブログなどで公表したりすることはまずない。ヤクザが「あなたのこと何でも知っていますよ」と迫るのと同じで、これは常識中の常識、基本中の基本だからだ。こういうところも能力者における怨霊の関与の判別の手掛りとなるものだ。(2013年1月12日)

善意のオネガイ

2015.01.02(00:19)

  新興宗教も教団霊中心のものと怨霊中心のものとがあるように思う。教団霊というのは多数の集団を雰囲気で操る術を持っている。利己的な動機故のマッチ・ポンプな自己矛盾から結果が元の木阿弥、空騒ぎだけで進歩がない場合が多い。対して、この怨霊中心の宗教というのが前者に比べれば素人には一見高尚にみえる。勿論これは便宜的な区分で両者の要素が混在しているのが普通だが、何をいいたいのかというと、怨霊は自分の人間性に自信がある人に憑くのではないかという懸念があるからだ。つまりこの状況下では俗にいう「お前の心掛けが悪いんだ」という指摘が一見当てはまらない場合が多い。潜在意識を細密にほじくってここは傲慢、ここは自信と腑分け点検しても意味がないので、そうではなく感情的な「人間的・・・!」というセルフイメージの孕む危うさを指摘したいのである。こういう人は常にいい人であろうとして心掛けや手法の選択で自業自縛に陥っており、精神不安定のところに怨霊が付け込む隙がある。日頃悩み迷う人物がある時いきなり強い自信をもってコトを決行する、これは通常とてもよい事の筈である。当然それがすべて怨霊の仕業とまでは思わないが、怨霊の特徴として、他人に何か強く懇願する、こういう特徴はあるかも知れない。つまり善意を通じて他人を使役酷使するということだ。これが常識的な範囲や当然の配慮を著しく欠いている場合、そしてその結果がどこまでも実を結ばない場合には怨霊の影響が関係しているかも知れない。(2013年1月12日)

新現代を斬る・斜陽篇(再録)

  1. 化身(01/02)
  2. のどかさは交通安全の大敵?(01/02)
  3. 密教と日蓮(01/02)
  4. パワーと怨念(01/02)
  5. 善意のオネガイ(01/02)
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